大会に向けてのミーティングが終わると、練習の余韻を引きずりながら、皆は静かに部室を出ていく。
杏捺は今日、どうしても夏也に声をかけたかった。
けれど、また踏み出せなくて、そんな自分にため息が出る。
授業のあいだも、部活の時間でさえも、心はそのことでいっぱいだったのに。
結局、勇気が出せなくて、情けなさと悔しさに胸が痛む。
帰ろうとカバンを取ると、顧問が夏也を職員室に呼んだ。
タオルを肩に掛け直しながら、夏也は尚に軽く声をかける。
「悪ぃ、尚。また明日」
尚は夏也に短く返事をすると、視線を杏捺に向けた。
その口元が、何かを察するように意味深に微笑んだ。
杏捺は隣で帰る準備をしていた友達に、こそっと耳打ちをする。
「ねぇ、ごめん。今日……先に帰っててくれる?」
目を丸くしてから、にやりと笑うのがわかった。
いつも相談しているから、この言葉だけで察してくれたようだ。
「夏也先輩のこと、待つんでしょ? いいじゃん、頑張って」
茶化す声に、杏捺は顔を赤らめて小さく頷く。
友達が帰ると、部室には静けさが広がる。
ドアが開閉される度、笑い声も足音も消えていった。
残ったのは、湿った空気と杏捺の緊張だけ。
落ち着かなくて、指先でノートの端をなぞる。
そして、部室のドアは思ったより早く開いた。
「……まだ居たのか」
夏也は不思議そうに杏捺を見た。
杏捺はびくりと肩を揺らし、慌てて笑みを作った。
「ちょっと、忘れ物しちゃって……」
誤魔化すように答えながら、ノートを片付ける。
夏也が置いていたカバンを肩にかけると、部室は一瞬の沈黙に包まれた。
杏捺は深く息を吸い込んで、言葉を絞り出した。
「……あの、夏也先輩。よかったら、一緒に帰りませんか」
夕日の光が、彼女の横顔を赤く染めていた。
夏也は少し驚いたように瞬きをしたが、すぐ柔らかく笑って頷いた。
「おう、帰るか」
◇
「――で、そのまま部長もやらかしてさ」
「えっ、部長まで?」
2人して笑う声が、鳥の声に紛れて響く。
いつも通り話をしながらも、杏捺は胸の鼓動を落ち着けようとしていた。
深呼吸をして、ふと海の方へ視線を逸らすと、杏捺は足を止めた。
それに気づいて夏也も立ち止まる。
「……杏捺?」
「綺麗……」
杏捺の目には、グラデーションの空が映っていた。
薄いブルーとオレンジが混ざり、分厚い雲は光を浴びて浮かんでいる。
その光は、振り向いた夏也の輪郭をなぞって、キョトンとした表情は半分影になっていた。
「……夏也先輩、ちょっと浜まで見に行きませんか?」
そう言った杏捺は、真剣な顔をしていて、夏也は断る理由もなく返事をした。
ぱっと笑顔になった杏捺が、はしゃぐように夏也を追い越す。
浜辺へ続く道で少し振り向いてから、段差をリズミカルに降りていく。
夏也も砂浜に足を下ろすと、潮の香りがふわりと漂った。
盗み見た杏捺の瞳は、光を反射して揺れている。
つられて視線を海へ戻すと、強い光が四方に筋を作っていた。
照らされた雲の輪郭が金色に染まっている。
「残念。今日、カメラのバッテリー切れちゃったんですよね」
杏捺はそう言って、指で四角いフレームを作る。
シャッターを切るように、ゆっくり瞬きをしてみた。
しばらく静かに空と海を見つめていた。
空の端から端まで、オレンジからブルーへと滲むグラデーションが広がっていた。
海が赤く染まり始め、波のひとつひとつが色を変えながら揺れる。
「杏捺は、こういう景色見つけるの得意だよな」
「そうですか?」
たわいもない会話が続く。
けれど、杏捺は光から目を離せずにいた。
夏也はそんな様子を見て、やがて声をかける。
「……暗くなる前に帰るか」
このままだと彼女はいつまでも色の移り変わりを見ていそうだった。
杏捺は短く返事をして、砂浜に足跡を残しながら歩く。
数歩進んだところで、波の音が少し静かになった。
太陽が海面に溶けていく中、杏捺が足を止める。
振り向くと、光を吸い込んだような夏也の瞳と目が合う。
心臓が落ち着いているのが自分でもわかった。
なんだか、今なら言えるような気がした。
「……夏也先輩」
足跡を追っていた夏也も立ち止まる。
杏捺は風に揺れる髪を片手で耳にかけながら、柔らかく微笑んだ。
「好きです」
やっと伝えられたという嬉しさと、今すぐにでも逃げ出したいほどの不安が入り交じった表情。
それでも杏捺は、言い終えたあとも視線を逸らさなかった。
夏也は、すぐには返事をしなかった。
驚いたように瞬きをして、口を開きかけては閉じる。
気まずそうに、言葉を探しているのがわかった。
ほんの数秒の沈黙が、杏捺にはずっと長く感じられた。
「……杏捺、俺……」
夏也は困ったように頭をかいた。
クセのある髪が夕日に照らされてキラキラしていた。
「わかってます。夏也先輩が断るの。今は水泳に集中したい……ですよね?」
微笑みながら、軽く首を傾げる杏捺。
夏也は何も言わず、そっと目を逸らした。
それは、肯定を示しているようだった。
「優しくされて、勘違いしたとかじゃないです。夏也先輩が、誰にでも優しいの、知ってます」
杏捺は、砂に残る自分の足跡を見つめながら言った。
潮の香りが、2人の間を通り抜けていく。
「好きになってもらえるなんて思ってません。私のこと、ただの後輩としか思ってないですよね……」
杏捺は拳を震わせながら、強く握った。
「……ごめん」
その声は、杏捺の想像よりもずっと優しくて、遠かった。
杏捺はようやく夏也の顔を見て、困ったように眉を下げて微笑んだ。
「伝えたかっただけなんです」
その笑みの奥に隠したものを悟られたくなくて、強がるように声を張る。
杏捺の瞳には、まだ夕日の余韻が映っていた。
「だから夏也先輩も、“よそよそしい態度”やめてくださいね?」
踵を返して歩き出す。砂を踏む音が、波の音に紛れて消えていく。
夏也はその背中を見つめ、ほんの小さな声で呟いた。
「……わかった」
砂浜を離れて歩き出すと、潮の香りが少し薄れていく。
沈黙を埋めるように、杏捺は寂しそうに話し始める。
気まずさからか、普段なら口にしない話題を選んだ。
「大会が終わったら、3年生も引退ですよね」
「……そうだな」
街灯がぽつぽつと灯り始めて、影が長く伸びていた。
2つの影は交わらず、距離は少し開いたまま。
けれど夏也の歩幅は大きく、気づけばまた並んで歩く。
杏捺の距離を保ちたい気持ちと、夏也の無意識の近さは対照的だった。
「じゃあ次は夏也先輩が部長になるんですよね?」
「いや、まだ決まったわけじゃないし」
夏也は横目で杏捺を見て、少し眉を動かした。
杏捺はわざと声を弾ませて言う。
「でも、強くて頼りになるし、絶対いい部長になりますよ」
夏也は口元を緩めた。
その笑みは、どこか力が抜けていて、夕日の影に隠れるようだった。
「……そんなストレートに褒められると、なんか照れるな」
「ほんとのことですから」
杏捺の声は明るく、けれど頼りなく揺れて聞こえた。
夏也はそれに気づいたのか、気づいていないのか、呆れたように肩をすくめる。
「こういうのだけ素直だよな、お前」
杏捺の家に着く頃には、2人共いつも通りだった。
笑い声が少し響いて、空には群青が押し寄せていた。
「送ってくれて、ありがとうございます」
「いや……帰り道だから」
「それでも、です」
杏捺は目を細めてそう言った。酷く優しい声だった。
けれど、指先は小さく震えていた。
「杏捺」
夏也が真面目な声で杏捺を呼ぶ。
「また明日、部活でな」
ただの挨拶にもとれるその言葉は、杏捺には違って聞こえた。
明日も普段通りでいいと言われたような気がした。
まるで杏捺の居場所を守ってくれているみたいだった。
気まずさを置き去りにして、優しく背中を押されるように。
「……はい!」
気持ちがこみ上げそうになるのを堪えながら、小さく手を振り夏也を見送る。
家の鍵を開けて、中に入ってすぐ、杏捺は崩れ落ちるように座り込んだ。
床の冷たさが肌に伝わって、余計に胸を締めつけた。
「……っ」
振られることは、わかりきっていた。
わかっていたのに、涙はもう我慢できなかった。
声にならない嗚咽が滲む。
優しさが身に染みて、好きな気持ちをまた思い知る。
静かな玄関に、押し殺した声が溶けていった。