見つめる記憶

いつもより早く学校に来た杏捺は、熱気のこもる教室に足を踏み入れた。
黒板が陽射しを反射して光り、窓を開けると蝉の声が流れ込む。
湿った風がカーテンを揺らして、杏捺は目を瞑った。

夏也に告白したことは、後悔していない。
断られるとわかっていたけれど、胸のわだかまりは少し軽くなった。
それでも、すぐに切り替えられるほど強くはなかった。

なんとなく正門を眺め、無意識に夏也を探してしまう自分に苦笑する。
肩をぽんと叩かれて振り向いた瞬間、頰を指でつつかれた。

「おはよっ!」
「あ……おはよ……」

友達の明るい声が、まだ静かな教室に響いた。
その声に救われるような気がして、杏捺はかすかに返す。

「どしたの、ぼーっとして。またあの先輩のこと考えてたの?」
「でもなんか元気ないじゃん」

覗き込まれる視線に逃げ場を失う。
昨夜泣き腫らした目を見られた気がして胸がざわついた。
どこか強がった調子で息を整え、杏捺は軽く肩をすくめる。

「……えーっと。失恋、しました」

ぽつりと落とした言葉は、なるべく明るく言ったつもりだった。
けれど、どこか力の抜けた響きになってしまい、声はわずかに震える。

「え、言ったの?」
「うん……昨日の帰りに」
「フラれたの?」
「……わかってたけどね」

友達の声は驚きよりも、心配の色が濃かった。
すぐに眉を下げ、そっと肩に手を置く。
その優しさが、かえって涙を誘う。

「あー、だめ。慰めないで。また泣いちゃうから……」

鼻の奥がツンとして、杏捺は咄嗟に両手を振る。
昨日の涙の余韻はまだ消えず、夏の朝は何事もなかったように始まっていた。

 ◇

大会まであと数日。
部活中のプールサイドには飛び込む音とタイムを告げる声が響く。

夏也の視線の先に、杏捺の姿があった。
カメラを手にしたまま、3年の先輩と話している。
肩に軽く手が置かれ、画面を覗き込む仕草に、杏捺は説明を添える。
先輩が何か冗談を言ったらしく、杏捺は口元に手を当てて笑った。

杏捺を傷つけた責任を、夏也は少なからず背負っていた。
だからこそ、ちゃんと部活に来て笑っている姿に安心した。

「次、夏也」

部長の呼びかけに短く答えると、スタート台に足をかけた。
大会まであとわずか。今は泳ぎに集中したい。
少しでも速く、少しでもタイムを縮めようと、フリーを泳ぎ切る。
だが、水から顔を上げた夏也には、尚の怪訝な顔がまず目に入った。

「……夏也、ちょっと休憩して。タイム落ちてる」

息を整えながらタイムを聞き返すと、いつもより明らかに遅い。
結果がついてこない現実が、重たくのしかかった。

その様子を、杏捺はカメラ越しに見ていた。
レンズを向けたまま、夏也の表情を追ってしまう。

「夏也、伸び悩んでるみたいだな」

隣で先輩が呟いたのと同時に、杏捺は立ち上がる。
なにか確信したように、歩調を速めてプールサイドを抜けていった。

プールから上がった夏也は、濡れた足跡を作りながらベンチに腰を下ろし、タオルでゆっくりと顔を拭った。
つい漏れたため息は、生ぬるい風にさらわれて、どこかへ溶けていく。

自分ではいつも通り泳いだはずなのに、結果が著しく落ちていた。
言葉にならない小さな引っかかりを映すかのように、水面は不規則に波打つ。
夏也は揺れる光をじっと見つめ、ほんのわずかに眉を寄せた。

「もしかして、肩の調子悪い?」

近づいてくる尚の声が、不意に耳に届いた。
プールを見つめていた視線が、思わず尚へ向かう。

「いや? なんでだ?」
「……焦ってる?」
「別に」
「じゃ、もう少し肩の力抜いて。フォームに影響してる」

尚の言葉に、夏也は一瞬返事を忘れた。
違和感はなかったのだが、肩に少し触れてみる。
思いがけない指摘に、胸の中に小さなざわめきが広がった。

「……そうか。自分じゃ気づかなかったな」

尚は口元をわずかに緩め、視線をプールの向こうへ向けた。

「お礼なら杏捺にしなよ。カメラのデータ、今日のと先週ので比較して見せてくれた。フォームの違和感に気づいたのは杏捺だよ」

自然と視線が動き、夏也は彼女を探した。
プールの端、少し離れた場所に、杏捺がいた。
静かにノートを書き込む姿は落ち着いていて、どこか大人びて見えた。

「おう、行ってくる」

尚が返事をする前に、夏也は立ち上がっていた。
座り込んで写真を撮る杏捺の方へ、プールサイドを回り込む。

杏捺は何度かモニターを確認して、またカメラを覗き込んでいた。
集中しているのか、近づいても気づかない。

夏也は膝の上に置かれたノートへ視線を落とす。
書き込まれたメモや、改善点が細かく整理されていて、几帳面さがよくわかる。
相変わらずの真面目さに少し呆れながら、思わず小さく笑う。
カシャ、とシャッターを切る音が聞こえてから、夏也はそっと声をかけた。

杏捺
「え、あっ、はい!」

顔を上げた杏捺は驚いたように身体を跳ねさせ、背筋を伸ばす。
大きな瞳が、すぐそばにいる夏也を映し出した。
裏返った声で返事をする様子からは、どこか緊張が滲んでいた。

「ありがとな、フォームのこと」
「そんな、大したことじゃないです……」

杏捺はカメラに触れている指をぎこちなく動かし、視線を逸らした。
頬が微かに赤くなっていくのに気づかないフリをして、すぐ隣に腰を下ろす。

「今日の写真、見せてもらってもいいか?」
「……はい!」

カメラの画面を操作して、今日の練習風景を次々に表示する。

「ここ、肘の角度とか、水の抵抗拾ってる感じがして……先週はもう少し……」

夏也の視線が画面上の画像へ注がれた。
飛び込み姿勢、入水の角度、水を掻く手の位置など、細かく映されている。

「すげぇなこれ……杏捺には、こんなふうに見えるんだな」

杏捺は指先でモニタの上のボタンを押した。
画面いっぱいに小さな四角が並ぶ。
それぞれが過去に切り取られた瞬間の断片だった。

「ここ押したらもっと昔の写真も見返せますよ」

そう言ってカメラを手渡す杏捺
思っていたより、ずしりとした重みが手のひらに感じる。
ただの機械ではなく、何かを託されたような感覚だった。

丁寧に切り取られた一枚一枚、杏捺の説明に従って写真を遡る。

「なんか俺の写真、多くないか?」
「え、あ、いや……だってそれは……」

言葉を探すように言い淀む杏捺
その様子に、夏也は少しだけ意地悪な気持ちで待つ。
彼女は、聞こえるか聞こえないかの声で呟いた。

「……好きですから」

その言葉に、夏也はふっと気が休まったように微笑んだ。
杏捺は膝をぎゅっと抱き寄せ、その隙間に顔を隠すようにうずめている。
耳の赤みだけが、彼女の恥じらいを静かに告げていた。

ふと一枚の写真で手が止まる。
鮮やかな景色の中に、自分の横顔が紛れていた。
見た瞬間、あの山頂の記憶が静かに蘇る。

「前の写真も残してるんだな」
「好きなので……消せなくて」

それは写真のことか、気持ちのことか。
杏捺には見えてないのに、この写真のことを言っているようだった。

お礼を言いながら夏也がカメラを渡すと、赤い顔のままの杏捺と目が合う。
受け取りながら心底恥ずかしそうに眉を下げて、潤んだ瞳が揺れる。
夏也は優しく笑って杏捺の頭をぐしゃぐしゃに撫でた。

「助かったよ。また頼むな。タイム、伸ばせるように努力する」
「がんばってください」

見てくれる仲間がいて、心強い。
気づけば肩の力が抜け、呼吸が少し深くなっていた。
胸の中に張り詰めていたものが、いつの間にかほどけている。
夏也は無意識に、確かな安堵感を抱いていた。