Pezzottaite

「俺、杏捺が好きだ」

部活終わり。
3年の先輩にプール裏へ呼び出され、唐突に告げられた言葉。
杏捺は一瞬、耳を疑った。
冗談も言い合えて気楽に話せる先輩だった。
けれど今、その空気が一変している。
まさか、そんなふうに見られていたなんて。

「ごめんなさい。好きな人がいるので……」

杏捺は、丁寧に頭を下げながらそう告げた。
目の前の先輩は、静かに笑った。

「わかってる。夏也だろ?」

その名前が出た瞬間、杏捺の心臓が跳ねた。
顔を上げると、先輩が辛そうに眉を顰めていた。
どうして、と聞く前に答えが返ってくる。

「ずっと、杏捺を見てたから……」

からかいでも、軽さでもない、静かな確信がその声に滲む。

「わかったんだ、杏捺が誰を見てるか。夏也が話してるとき、どんな顔してるか。あれは、好きな人に向ける目だ」

杏捺は尚にも気づかれたことを思い出していた。
自分でも知らないうちに、そんなふうに見ていたのかもしれない。
それを見られていたことが、急に恥ずかしくなった。

「なあ、次の大会のタイム、俺が夏也に勝ったら……俺と付き合ってくれよ」
「……え?」

言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。
どうして勝負に結びつけるのかと、杏捺は思わず首を傾げる。
否定しようとした瞬間、先輩の手がそっと肩に触れた。
強くはない。でも、逃げられないくらいの、確かな圧。

「せめて……勝負くらいさせてくれ」

その声は、静かで、でも揺るぎなかった。
ふざけているわけじゃない。勝負のついででもない。本気で言っている。
杏捺は、言葉を失ったまま、ただその手の温度を感じていた。

「少しくらい、俺のこと見て」

それだけ言い残して、先輩は手を離し背を向ける。
彼の言葉は、杏捺が夏也に思っていることと同じだった。

杏捺が呼び止めようと動き出した時には、先輩はもう走り去っていた。
どうすればいいかわからないまま、立ち尽くす。
相手からの気持ちに、どう向き合えばいいのか迷う。
先輩の気持ちは、今の自分と一緒だ。
そう思うと、胸がじんと痛んだ。
ため息をひとつ、杏捺は肩を落として踵を返す。

その瞬間、視界の端に人影が映った。
柱の陰。さっきまで死角になっていたその場所に、夏也が立っていた。
心臓がきゅっと縮こまり、飛び上がるように体を跳ねさせた。
口が半開きのまま、言葉にならない叫びが喉の奥に貼り付くようだった。

「……よお」

無理やり笑顔を作った、どこかぎこちないその表情。
杏捺は瞳を大きく開いたあと、何度も瞬きを繰り返す。
周りのざわめきが遠のき、二人の間にぽつりと沈黙が落ちた。
夏也は上げた手のやり場に困って気まずそうに頬をかいた。
杏捺はひゅっと息を吸い込んで、声を絞り出す。

「……聞いてたんですか?」
「全部、聞こえてた。驚かせて悪い」

夏也はばつが悪そうに目を逸らし、肩を落とす。
杏捺にとって、最悪の展開。一番聞かれたくない相手だった。
声になりかけた言葉を、そっと留めてから、呟くように言う。

「夏也先輩は、夏也先輩のためだけに泳いでください」

制服の裾をぎゅっと摘まんで、応援はしてます、とだけ付け加えた。
その様子を見た夏也は、思わず肩を震わせて吹き出した。

「……頼ってくれてもよかったのに」

言葉はふわりと軽く投げられたけれど、杏捺の鼓動は一気に高鳴った。
もどかしさが、じわりと広がった。

「そんなこと、考えてほしくないです」

杏捺は涙を浮かべたまま夏也を見上げた。
その瞳は、泣いているのに不思議なくらい澄んでいて、光を吸い込むたびにきらめく。
夏也は理由もわからないまま、目を逸らせなかった。

「私はただ、夏也先輩の泳ぎで……勝って、笑ってほしいのに」

言い終えたあと、杏捺は視線を落とした。
夏也の目を見ることができなかった。

「でも……でも、もうそんなこと言えないです」
「なんだよ、勝ってほしくないのか?」

夏也の声は、少しだけ困ったように揺れていた。
杏捺は首を横に振る。すぐに否定したかったのに、言葉がうまく出てこない。

「そうなんですけど、そうじゃなくて……」

制服の裾をぎゅっと握っていた手に、力が入る。
言葉を待つような沈黙に、杏捺はようやく声を絞り出して言った。

「先輩のことを断れないから勝ってほしいって、思われたくない……」

その言葉は、自分でも驚くほど素直に口から出てきた。
俯いたまま、握っていた手をゆっくりとほどく。指先がじんと痺れていた。
やっと夏也を見ると、視界がじんわり滲んでくる。

「勘違いしてほしく、ないです」

息が苦しくて、胸が詰まって、声が上ずる。
とうとう杏捺の瞳から涙がこぼれ、まぶたがぴくりと震えた。
それを見た夏也が、目を見開いて息を呑む。
言葉を失って、周りの音が遠のいていく感覚がした。

「ただ頑張ってるところを応援したいだけなのに、他の理由があるように聞こえるの、イヤなんです」

言い終えたあと、杏捺はそっと目を閉じた。
頬を伝う温かい雫を、手の甲で強く擦って拭う。
これ以上、酷い顔を見られたくなくて。
けれど、あふれだした感情は止まらない。
それどころか、喉の奥がひくっと小さく痙攣し始める。

滲む視界に夏也の靴が映って、杏捺は反射的に顔を上げた。
無意識に近づいたであろう夏也。思っていたより顔が近くて、杏捺は一瞬呼吸が止まる。
夏也は自分の首にかけたままのタオルを手に取り、杏捺の頬に優しく当てた。
柔らかな布の感触と、思いがけない距離に、杏捺の顔が熱くなっていく。
驚きと戸惑いが入り混じって、ただ目を見開いたまま、動けなかった。

「……杏捺

夏也は眉を少し下げて、困ったような顔をしていた。
タオルを杏捺の首にかけて、再び頰に当てる。
杏捺はひとつ頷いて、夏也の手から受け取るようにしてタオルを手に取り、まつ毛をなぞりながら呼吸を整える。
夏也の匂いに包まれてくらくらしそうだった。
おかげで涙は止まったけれど、気持ちはまだスッキリしないまま。
言葉にしようとしても、うまく言える気がしない。
それでも、何か伝えなければと思った。

「夏也先輩に、こんな顔っ……見られたくなかったです」

呼吸を整えられず、杏捺は声を震わせた。
夏也はそんな杏捺を見て、ゆっくりと口を開く。

杏捺が泣くとこ、初めて見たな」

夏也は、そっと手を伸ばして杏捺の頭をぽんぽんと撫でた。
あやすような、でもどこか不器用な仕草だった。

「我慢しなくていい」

夏也がぽつりと呟いて、杏捺はまた泣きそうになってしまう。
その言葉には、優しさも、迷いも、少しの照れも混じっていた。
彼女の瞳からこぼれ落ちる雫を見て、夏也はなぜか少し安心していた。
ただ目の前で泣いている杏捺が、たまらなくいじらしくて、どうしようもなく胸がざわつく。
理由なんてわからず、それでも今だけは離れちゃダメだと思った。

「……ごめんなさい、ありがとうございます」

我慢しなくていいのに、と思いつつ、夏也はかける言葉が見つからなかった。
杏捺の声は、さっきまでの震えが少しだけ和らいでいた。
彼女の目元にはまだ濡れた余韻が残っているけれど、呼吸はゆっくりと整っていく。
その赤い頬と潤んだ瞳を見て、夏也はまた心を乱されるような感覚がした。
ふたりの間に、言葉にならない沈黙が流れる。
けれど、それはどこか心地よくて、このままでいいと思えた。
校舎の向こうには、もう茜色が滲んでいた。