予感、ひとしずく

「――って、このクラスか?」

杏捺が自分の席で次の授業の準備をしていると、廊下の方から声が聞こえる。
口調から、クラスメイトが先輩と話しているようだった。

「いえ、うちのクラスじゃないですね」
「そうか、ありがとう」

柔らかく、けれど芯の通るような、優しく甘い声。
少し気になった杏捺は、数回瞬きをして顔を上げた。
教室のドアの向こうで、誰かが廊下を歩く足音が耳に届いた。
椅子の前脚を浮かし、後ろ脚だけで支えて何気なくそちらを覗く。

彼が視界に入った瞬間、時間がふっと緩んだ。
まるで世界の中心がここに決められたみたいに、周りの音が遠ざかっていく。
友達の笑い声も、風のざわめきも、すべてが背景になった。

彼だけが、そこにいた。

少し無造作な髪がフワッと揺れた。
長い睫毛に透けて見える瞳が、キラキラ光って見える。
整った鼻筋と輪郭に息をのんだ。
唇の形が微かに微笑むと、杏捺は目が離せなくなった。
制服の襟元が少し乱れていて、それが妙に大人びて見える。
歩き方も、どこか余裕があって、周囲とは違う空気を纏っていた。
ただ、胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
痛いわけじゃない。だけど、息をするのが少しだけ難しくなる気がした。
初めて見るはずなのに、心が彼を知っているような気持ち。
ずっと求めていた人に出会ったみたいに、杏捺は彼を見つけてしまった。
目が合ったわけでもない。話したわけでもない。
それなのに、杏捺の中に彼の存在がすっと入り込んできた。
彼が通り過ぎたところから、世界に色がついていく気がした。

「っ、わ……!」

椅子が後ろへ傾く感覚がして、慌てて重心を前に移動させ身を屈めた。
勢いよく椅子が戻ってきたので杏捺はそのまま額を机に打ちつける。
ゴンッ!と、激しい音を立てて、現実はぶつけた衝撃とともに戻ってきた。

「な、なに、大丈夫……?」

前の席の友達が半ば引きながら杏捺に声をかけた。
頭がクラクラするのは強く打ったからなのか、それとも。
額を両手に当て痛みを耐えながら、ハッとして立ち上がる。
急いで廊下へ出てみるが、先ほどの彼の姿はもうなかった。
慌てた様子の杏捺に、彼と話をしていたであろうクラスメイトが声をかける。

「ど、どうしたの」
「……さっきの人、だれ……?」

杏捺は廊下を見渡しながら、小さな声で問いかけた。
プリントを持っていて、人を探していたみたいだと説明される。
誰なのかを聞いてみると、別のクラスの生徒だった。
心の底に、小さな波紋が広がった。
理由はわからないが、どうしても気になってしまう。
次の授業まで、まだ時間はある。

杏捺は、彼が探していたという生徒のいる教室へ足を運んだ。
彼と知り合いかもしれない。そんな期待をしながら扉をそっと開ける。
躊躇いながら教室に入り、杏捺はその生徒に直接声をかけた。

「さっき先輩が来たと思うんだけど……知り合い?」

相手は少し驚いたように目を見開き、そして首を横に振る。

「いや……落としたプリントを届けてくれただけで、知らない人だよ」
「……そっか、ありがと……」

杏捺は困ったように微笑みながらそう言うと、俯きながら自分の教室へ向かった。
落ちていたプリントを拾っただけ。
それだけの理由で、彼はそこにいたのだ。
もし彼が気づかなかったら、もし誰かが先に拾っていたら。
杏捺は、彼を知らずにいたかもしれない。

 ◇

翌朝。柔らかな光が、校舎の窓に淡く反射している時間。
杏捺は教室の窓辺に立ち、正門の方を黙って見つめている。
制服の袖口を指先でなぞりながら、登校してくる生徒たちの姿を目で追う。
彼をまた見ることができるかもしれない。
そんな期待だけが、杏捺を窓辺に立たせていた。

「会いたいな……」

呟いた声は、窓の外に吸い込まれていった。
風が吹いて、校庭の木々が揺れる。
その音に紛れて、杏捺は小さくため息をついた。
あの先輩が来たところで、なんの関係もないまま話しかけに行く勇気はない。
でもせめてもう一度、しっかり見ておきたい。
その願いは、まだ言葉にならないまま、杏捺の心にそっと沈んでいた。

あの日から、杏捺の朝は少しだけ早くなった。
正門を見つめる時間が、いつの間にか日課になっている。
そんな毎日が続いた、ある昼休み。
教室はお弁当の匂いと、笑い声と、微妙に眠そうな空気に包まれていた。

友達数人で机を囲んで話している中、杏捺は上の空だった。
そう、頭の中はあの人でいっぱい。
ほんの一瞬の出来事だったけど、あの声と横顔が無意識に心を引き寄せた。
それ以来ずっと忘れられなくて、杏捺は四六時中ぼうっとしていた。
友達の女子達も少し気にかけるほど。
声をかけても生返事しかしない杏捺に、友達同士で顔を見合わせる。

杏捺?なんか最近ぼんやりしてること多いけど、大丈夫?」

その声に、杏捺はハッとして顔を上げる。
右、左、正面。3人の友達が心配そうにこちらを見ている。

「うん、大丈夫。元気だよ」

そう言ってみるけれど、みんなは疑いの目でじっと杏捺を見つめている。

「嘘ばっかり。杏捺の目はそう言ってないよ」
「すーぐ意地張るんだから」

そう指摘されて少し決まりが悪そうに笑う。
隠し事ができるほど器用じゃないのは自分でもわかっていた。

「えっと……実は……」

続きを探しながら、杏捺は箸をそっと置いた。
話すか迷っていた気持ちが、友達の相槌でほどけていく。

「気になってる人がいて……」
「えっ、誰?同じ学年?」

声に出した瞬間、心の重さがほんの少しほどけた。
でも同時に、彼の横顔が、より鮮明に思い出された。

「たぶん2年の先輩……。廊下で一度だけ見かけたの」

そう言いながら、杏捺は自分でも不思議な気持ちになる。
顔と声しか知らない、話したわけでもない。
なのに、あの日の彼が、ずっと記憶に残っている。

「か、かっこいいなって……」

そう思っていても、言葉にするのは初めてで、杏捺は恥ずかしさで頰を赤くした。

「うちの学校、イケメンの先輩多いよね〜。誰だろ、気になる〜!」

1番ミーハーな友達は、思い出すように目線を上げた。
杏捺が聞いたことのない苗字を言いながら、指折り数えている。

「けど、どうやって探せばいいのかなって……」
「私、年子のお姉ちゃんいるんだけど、2年生で。聞いてみようか?」

落ち着きのある友達は、親身に寄り添ってくれる。

「ありがとう。でも……一瞬見ただけで、名前もわかんないんだ」

杏捺の声は、少しだけ沈んでいた。
あの日の光の中にいた彼の姿は、鮮明なのに、手がかりは何もない。あるのはただ、声と、横顔と、春の匂いだけ。

「ほんとに、記憶の中に住んでるみたい。勝手に思い出しちゃうの」

彼をずっと探している。
あの日見かけたことが、呼吸みたいに胸の奥に残っていた。

「なんか、忘れられなくて……ずっとその人のことばっかり考えてる」
「ねぇ、それ……好きってこと?」

勢いよく身を乗り出してくる友達に、杏捺は思わず肩をすくめた。

「……好き、なのかな……見た瞬間、胸がぎゅってなったの」

杏捺は、自分の口から出た「好き」という言葉に、少しだけ戸惑った。
その響きが自分の中にまだ馴染まず、確信は持てない。
でも、あの日の感覚は確かに残っている。
心の深いところで、静かに揺れている。

「好きって、こんなに突然訪れるものなの?」

自分のことなのに、あまりよくわからない。
こんなに誰かに強く惹かれたことなんてなかった。
今まで知らなかった感覚だった。

「恋って、いつの間にか落ちてるものなんだよね……」

ロマンチストな友達は手で頬を抑えながら、目を瞑って感慨に浸りながら言う。
みんなの視線が優しくて、杏捺は動揺を隠せない。

「好きとかはわかんないけど……だからこそ、ちゃんと見たいなって思って。できれば話しかけたいけど……」
「それで毎朝早く来て正門見てたんだね」

そう言われて、杏捺は小さく頷いた。
見つけられるかどうかもわからないのに、毎朝窓辺に立って。
あと何回、偶然に期待すればいいんだろう。

「そっか……進展したら教えてよ。相談乗るし、協力するから」
「……うん。ありがとう」

杏捺は照れたように微笑んだ。
話すか迷っていたけど、否定されなくて少し安心した。
名前も知らない誰かを探しているなんて、恥ずかしくて。
でもそれ以上に、心が動いてしまったのは確かだった。
こうして話せたことで、頭の中のもやが多少は晴れた気がした。