大会当日。
杏捺は夏也のそばには行かず、声をかけないよう心がけた。
余計なことを考えてほしくない、ただそれだけだった。
空気が少しずつ張りつめていくのを感じながら、遠くから見守ることしかできない。
それでも、純粋に夏也の勝利を願い続けていた。
杏捺は観客席でカメラを握りしめながら、みんなと少し離れて座る。
陽射しで温まった手すりに触れると、その熱さに驚いた。
それほどに手は緊張で冷たくて、杏捺はカメラを持ち直す。
夏也の出番が近づくにつれて、心臓の鼓動だけが落ち着かなかった。
頑張ってほしい。勝ってほしい。
そう思っているだけなのに、落ち着かない気持ちが、胸のあたりで渦を巻いていた。
純粋に応援したい気持ちとは裏腹に、先輩の言葉が脳裏をよぎる。
先輩に同情して、はっきり断れなかった自分の情けなさにも嫌気が差す。
空回りしている気がして視線を落とすと、ため息が出た。
そんなときだった。
「おいコラ杏捺」
背後から名前を呼ばれ、肩がびくりと跳ねる。
振り返ると、観客席の一段上から夏也が覗き込んでいた。
逆光で輪郭が光に縁取られ、表情は読めなかったが、怒っている気配はない。
「っ、夏也先輩……!」
「あからさまに避けてんじゃねーよ」
叱るような言い方なのに、声だけは不思議と優しかった。
むしろ、気にしてくれているのが伝わってきて、余計に胸が痛んだ。
「だって……」
夏也は続きを待ちながら段差を降りて、ためらいもなく杏捺の隣に腰を下ろした。
いじけたように下を向く杏捺。
本当は応援したい。頑張ってください、と伝えたい。
でも、それを言えば夏也にどう思われるのか、不安の方が大きくて言えなかった。
その様子に気づいたのか、夏也が口を開く。
「お前が何を言っても、何を言われても、何も言わなくても」
杏捺はゆっくりと顔を上げ、夏也へ視線を向けた。
さっきまでプールの水面を追っていた夏也の目が、まっすぐ杏捺を捉える。
「勝つからな」
その言葉が、自分に向けられたものなのか。
それとも、ただの宣言なのか。
分からないまま、夏也を見つめる。
光を受けた瞳が、深く透き通って映る。
長い睫毛が頰に影を落としているのすら、やけに鮮明だった。
心を奪われたように見入ってしまって、もう目を逸らせなかった。
「……はい」
夏也に見とれたまま、かろうじて絞り出した返事は、震えていた。
「ん、ちゃんと見とけよ」
夏也はそれだけ言って立ち上がり、去っていく。
取り残されたような感覚のまま、杏捺はその背中を見つめていた。
どうしようもなく好きだ。その想いが、胸の内側からあふれ出してしまう。
◇
1年男子のフリー100メートルが終わると、いよいよ次は夏也の番だった。
スタート台に並んだ選手たちの中で、杏捺の視線は自然と一人に引き寄せられていた。
「Take your marks――」
会場の空気が一瞬で張りつめる。
静寂のあと、スタートの短い音が響く。
夏也の身体が水に吸い込まれ、次の瞬間にはもう前へ進んでいた。
水しぶきが一斉に跳ね上がり、レーンの上に白い軌跡が走る。
夏也のストロークは、他の誰よりも大きく、力強い。
水面を切り裂くたび、光が反射する。
ファインダー越しでは足りない。
もっとちゃんと見たい。
気づけば、カメラは膝の上に置かれていた。
水しぶきの向こうにいる夏也を見失いたくなくて。
呼吸をすることさえ、彼に奪われてしまったみたいだった。
杏捺は両手を握りしめ、ただ夏也を目で追い続けた。
周囲の歓声が大きくなるほど、彼女の世界は静かになっていく。
夏也の手が壁についた瞬間、杏捺はようやく息を吸った。
電光掲示板に順位とタイムが表示される。
しかし、杏捺の視線は夏也に注がれたままだった。
息が上がったままゴーグルを外して確認する姿に、心音が高鳴る。
自己ベスト更新。どこかでそんな言葉が聞こえて、思わず胸が熱くなる。
夏也が勝ったかどうかよりも、全力で泳ぎ切ったその姿が、杏捺には何より眩しかった。
杏捺の鼓動が落ち着くより先に、今度は3年のレースが始まる。
チームの先輩として、応援したい。
でも、勝ってほしいと思うほど、心のどこかが痛んだ。
先輩が軽く肩を回し、スタート台に上がる。
その横顔は真剣で、普段の柔らかい笑みとはまるで違う。
杏捺の唇が、かすかに震えて引き結ばれた。
こんなに本気で泳ぐ人を、応援しないなんてできない。
「どうすればいいの……」
電子音が響くと、選手たちの身体が弾かれたように水へ飛び込む。
先輩の泳ぎはしなやかで無駄がない。
腕が水を切り、追い上げる選手を振り切るように、先へ先へと伸びる。
練習で何度も見たフォームなのに、今日の先輩はどこか違って見えた。
その姿は、まるで何かを掴みにいくようだった。
折り返しのターンで一気に加速する。
壁を蹴る脚力は、選手の中でもトップだ。
水面に刻まれるストロークのリズムが、観客席まで伝わってくる。
「このまま、最後まで……」
心の奥で渦巻いていた祈りのような気持ちが、自然とこぼれる。
その声は観客席のざわめきにすぐ飲まれ、掻き消えた。
努力を見てきた部員として、先輩の泳ぎを信じたい。
そんな思いが形になっただけだった。
タッチの瞬間、指先が水を切り裂き、壁に吸い付くように伸びる。
表示されたタイムの数字を見て、杏捺の肩から力が抜けた。
緊張で張りつめていた糸が、ふっと緩む。
歓声が高まる中、杏捺の心だけが置き去りにされたようだった。
夏也のタイムが頭をよぎり、唇を嚙む。
先輩がゴーグルを外して、電光掲示板を見上げタイムを確認する。
拳を握り締めた瞬間が見えて、杏捺は息を呑んだ。
水面にはまだレースの余韻が揺れている。
杏捺は、プールから上がる先輩の背中を見守ることしかできなかった。
◇
「――夏也!」
誰かが名前を呼んで、杏捺はつられて振り向いた。
競技を終えた夏也が戻ってきて、みんなが次から次へと駆け寄る。
あっという間に部員に囲まれ、夏也は輪の中心へ吸い込まれていった。
肩を叩いたり、頭を撫でたり、いいようにされる夏也。
杏捺はまだ少し離れた場所で、その光景を見つめていた。
照れながらも笑う夏也の表情に、ふっと頰が緩んだ。
どうしても、この人に惹かれてしまう。
特別で、気づけばいつも彼のことを考えている。
自然と目で追ってしまって、自分では抗うことができない。
もうとっくに答えは出ていた。
どんな結果になろうと、伝えることは決まっていたはずだった。
それを思い出して、杏捺は立ち上がる。
「杏捺? どこ行くの?」
「ちょっと……自販機探してくる」
チームメイトが声をかける。
杏捺は適当な理由をつけて観客席を後にした。
通路に出て、先輩の姿を探す。
他校のジャージばかりが視界を横切り、選手たちの声も騒がしい。
そんな中、やっと彼を見つけた。
先輩はタオルを頭にかぶったまま、段差に座り込んでいた。
杏捺はそっと歩み寄り、隣にしゃがみ込む。
何を言えばいいのか分からない。
けれど、離れることだけはできなかった。
「……負けた」
タオルの奥から、掠れた声が落ちる。
その肩が震えているのに気づいて、杏捺は小さく息を整えた。
視線を落としたまま、慎重に言葉を選ぶ。
「先輩が勝っていても、私は同じことを言っていたと思います」
先輩は顔を上げない。
沈黙だけが、二人のあいだに降り積もる。
「……すみません。私、夏也先輩しか見てないんです」
自嘲の色を含んだ声が、杏捺自身の胸にも鈍く痛みを残していく。
慰めでも、責めでもなく、その言葉は杏捺の正直な気持ちだった。
彼の指先がわずかに動いて、タオルの端が風もないのに微かに揺れた。
「だから、ごめんなさい……」
そう言い終えても、先輩は何も言わなかった。
でも、杏捺には気持ちが痛いほどわかる。
夏也に振り向いてもらえなかった自分と重ねて、視界が少し滲む。
それでも、最後の言葉だけははっきりと伝えたかった。
「好きになってくれて、ありがとうございます」
杏捺は立ち上がる。
先輩は顔を上げることもなかったが、杏捺は深くお辞儀をして、静かにその場を離れた。