ヒミツの朝

朝の学校は人の気配がほとんどなく、一日が動き出す前の静けさが漂っていた。
気温はゆっくりと上がり始め、空気はじっとりと湿っている。
杏捺は、いつものように少し早めの時間に登校していた。

その静けさの底に、ふと水の揺れる気配が混じる。
聞き間違いかと思い、杏捺は足を止めて耳を澄ませた。
水を切る規則正しい音が、確かに聞こえる。
気づけばプールの方へ足が向いていた。

大会も終わり、三年生はもう引退したはずだった。
疑問が背中を押し、杏捺はプールへ続く階段を上る。
流れてくる、冷たい空気と塩素の匂い。
遠慮がちに中を覗くと、朝日を映した水面が淡く揺れている。
それを、力強いストロークが切り裂いていた。

見覚えのあるフォーム。
何度も、何度も見てきた泳ぎだった。

「……夏也先輩?」

思わず声が大きくなり、杏捺は口元に手を当てた。
慌てた拍子に足元の柵へ身体が触れ、カシャン、と乾いた金属音が響く。
その瞬間、水音がぴたりと止まった。
泳いでいた人影が顔を上げ、ゴーグル越しにこちらを見つめる。
やがてゆっくりとプールサイドへ寄り、キャップとゴーグルを外した。

杏捺?」

その声を聞いただけで、杏捺の胸がきゅっと締めつけられた。
胸にしまい込んでいた感情が、不意に呼び起こされる。
きょとんとした顔の夏也を見て、慌てて声を上げた。

「あ、すみません! 邪魔するつもりじゃ……」

言いながら、今さらのように立ち去る理由を探す。
けれど夏也は、息を整えつつ杏捺を呼び止めた。

「いや、ちょうど良かった」
「え?」

夏也がプールの縁に手をかけ、身体を引き上げる。
タオルを掴んで濡れたまま近づいてきて、髪を拭きながら入り口の柵に触れた。
その距離の近さに、杏捺は無意識に背筋を伸ばす。

「あのさ」

呼吸が整うのを待つように、短い間が落ちた。
夏也が何か言いかけて言葉を飲み込む。
その一瞬のためらいに、杏捺は少しだけ嫌な予感がした。

「……俺のこと、まだ好きなんだよな?」

あまりにも真っ直ぐな問いだった。
心臓が一拍遅れて跳ねて、杏捺は目を見開いたまま声を失う。
もしかして、嫌な思いをさせてしまっただろうか。
すぐに返事が出てこなくて、喉を詰まらせて言い淀む。

「あー、待て待て。別に責めてるとかじゃないからな?」

夏也が慌てて顔の前で手を振る。
その仕草は優しく、杏捺は余計に胸が苦しくなった。

「迷惑でしたか?」

やっと絞り出した声は小さかったが、夏也には届いていた。

「迷惑なわけないだろ」

夏也はふっと笑って、何かを確かめるように杏捺を見つめる。

「付き合うか、俺たち」
「…………えっ?」

その言葉は、あまりにも自然に、あまりにもあっさりと告げられた。
まるで、ずっと決めていたことを声に乗せただけのように。
杏捺は思考が追いつかず、口を開けたまま固まる。

「なんだよ、その反応」

夏也が呆れたような視線で、少しだけ頬を赤くした。
足元がふわりと浮くような感覚がして、杏捺の声が震える。

「ほ、本気ですか? からかってるワケじゃなくて?」
「……冗談で言うかよ」

夏也はため息混じりに声を落として、プールへ視線を向ける。
さっきまで彼の動きに揺れていた水面が、ゆっくりと静けさを取り戻していく。
波紋が薄れていくたびに、心の中まで落ち着いていく気がしていた。

「あの日さ、3年のフリー100メートル」

――大会の日。
先輩が夏也のタイムを超えると宣言して挑んだ、あのレース。
夏也がぽつりと切り出した瞬間、大会の日の空気がふっと蘇る。
水しぶきの音、歓声、胸が焼ける緊張。
杏捺の記憶には、今でも鮮明な映像のように残っている。

「……俺、プールサイドで見てたんだ」

その横顔には、どこか影のようなものが差していた。

「先輩には悪いけど……タイム見て、すげえ安心しちまってさ」

自嘲気味に揺れる声には、隠しきれない本音が滲んでいた。
その声の揺れを、杏捺は初めて聞いた気がした。
あの日のことを思い返すたびに、夏也の中にも整理しきれない感情が渦巻いていた。

「自分の泳ぎには集中できたのに、先輩の泳ぎには……杏捺の泣いた顔がチラついて」

その言葉に、杏捺は息を飲む。
夏也がそんなふうに思っていたなんて、想像もしなかった。

「おかしいよな。お前の告白断っといて……今さら独占欲が出た」

そう言って、真正面から目を合わせてくる。
思いがけない言葉に、杏捺は一気に顔が真っ赤になった。

「でも、出ちまったもんは仕方ない」
「……ちょ、ちょっと待ってください! キャパオーバーです!」

杏捺は両手をぶんぶん振って抗議する。
それを見て、夏也は少し照れたように笑った。

「そんな全力で拒否らなくても」
「や、嬉しいですけど、いきなりすぎて驚きの方が勝っちゃって……」

言葉とは裏腹に、視界が滲んでいく。
溢れそうな涙を止めようにも、どうにもできなかった。

「頭冷やして、体動かしてさ……けど、消えねえんだ」

夏也の声は低く、どこか苦しげだった。
杏捺は一瞬、何のことを言っているのか分からず、まばたきをする。
けれど、夏也がそっと手を伸ばし、彼女の涙を指先で拭った。
その仕草が、答えをすべて物語っていた。

「信じて、いいんですか……?」
「傷つけたのは分かってる。でも、それでも信じてほしい」

夏也は、真剣な表情で杏捺の目をしっかりと見た。
震える声を押し殺し、彼女は小さく返事をする。
それを見て安心したように、夏也は少しだけ口元を緩めた。

「……俺、杏捺が思ってるよりガキっぽいところあるけど、いいのか?」
「はい」
「即答かよ」

思わず笑ってしまいそうなほど、拍子抜けした声だった。
けれどその裏に、安堵が滲んでいるのが分かる。
ようやく届いた気持ちが、そっと形になっていく。

「そういうところも、好きなんです」

夏也は目を丸くして、それから照れ隠しみたいに視線を逸らした。

「部長になったら、あんま構ってやれないかもしれないけど」

困ったように頭をかく。
濡れた前髪の先から、水滴がぽたりと落ちる。

「え、あの……夏也先輩って、人気なんですよ? 私なんかと付き合ってるってバレたら……」
「なんだそれ」
「周りの反応が怖いし、耐性ないので……」

夏也は少し眉を寄せて首を傾げた。
どうやら杏捺の心配がいまいち理解できていないらしい。
ただ、否定することなく、彼女の気持ちを優先するように見えた。

「よくわかんねーけど、言いたくないってんなら……」

夏也は唇に指を当て、声を落とす。
その仕草は、朝の静けさの中で妙に大人びて見えた。
屈んで目線を合わせると、逆光が彼を縁取って杏捺に影を作った。

「内緒、な?」

囁くようなその声に、杏捺は言葉が返せなくなる。
頰が熱くなるのを感じながら、きゅっと唇を結んで、大きく何度も頷いた。