午後の練習も中盤に差しかかり、プールには一定のリズムが流れていた。
水を掻く音、ターンの水音、短く飛ぶ声。
光が水面に揺れて、誰かが泳ぐたびに乱れていく。
夏也がプールサイドで肩を回し、次のメニューに備えていた。
そこへ、濡れた足跡を点々と残しつつ、航太がバインダーを片手に近づいてくる。
「夏也、ちょっといいか」
「どうした? なんかあったか、航太」
「来週の練習メニューなんだけどさ……」
話し始めたところで、プールの方から女子の歓声が一斉に上がる。
思わず航太と夏也も揃ってそちらを向いた。
「今のターンいいよ、いつもよりタイム縮まってる!」
「そのまま行けー! 杏捺!」
杏捺の名前が耳に入った瞬間、反射的に夏也はその泳ぎに集中する。
コースの端を、杏捺が背泳ぎで進んでいく。
彼女の腕が水を切るたび、白い飛沫が弾けた。
光が細く跳ねて、フォームがいつもより綺麗だった。
伸びやかで、見ていて気持ちいい。
「最近いい感じだよな」
「ああ……」
返事をしながらも、視線は杏捺から離れない。
一定のリズムで水を押し、身体がまっすぐに進んでいく。
手が壁に触れると、女子の歓声がまた上がった。
ゴーグルを外して息を整える杏捺の表情が、ぱあっと明るくなる。
額の滴を指で払う仕草まで見届けて、ようやく瞬きをした。
その瞬間、頭に軽い衝撃。
「見過ぎ」
航太が呆れたように、バインダーで叩いてくる。
夏也は肩をすくめ、気まずさを隠すように少し眉を下げ苦笑した。
「やべ……悪ぃ」
見ていたという事実だけが、やけに意識に残る。
部長として気にしてただけだと、自分に言い聞かせるように呼吸を整えた。
バインダーを持つ指に、わずかに力が入る。
悟られないように、声を落ち着かせて紙を指でなぞる。
「で、練習メニューだけど」
何事もなかったように話を戻す夏也。
航太も深く追及せず、二人の間には淡々と数字と距離の会話が戻っていく。
バインダーを受け取り、意見を取り入れながら書き換える。
一通りの会話が止まったところで、航太が声を潜めた。
「なあ、杏捺って、かわいいよな」
夏也は一瞬、呼吸が止まった。
どう返すべきか、頭の中で言葉が渋滞する。
「……まあ、部の中じゃ目立つ方かもな」
息が喉につかえて、すぐに言葉が出なかった。
無難に逃げたつもりが、航太はさらに踏み込んでくる。
「なんか守ってあげたくなるっていうかさ……」
「そうか?」
夏也の声がわずかに硬く沈む。
航太はその変化に気づかず、上がった調子のまま続けた。
「昨日の帰り、後ろから声かけたらビクーッって跳ねてさ、照れた顔とか……」
言い終わる前に、夏也の手が自然に動く。
今度は航太の頭にバインダーが軽く当たった。
「いって!」
「そんなふうに見てたら、女子全員に睨まれんぞ」
ちょうど別の組がスタートの合図に飛び込み、水音が大きく弾ける。
二人のやり取りはその音にかき消された。
ふざけ合うような空気が戻って、航太はいじけたように言う。
「なんだよ、夏也だって見てたろ!」
「うるせーなぁ。ほら、さっさと練習戻るぞ」
すかさず航太が文句を言う。
大袈裟に頭を押さえてながら、目は笑っている。
こういうやり取りが日常だからこそ、夏也の変化には気づかない。
航太を追い立てながら、夏也も歩き出す。
知らない感情が、静かに、けれど確実に膨らんでいた。
それが何なのかは、まだ考えないことにした。
一方、杏捺はプールサイドに座り、息を整えながら休憩していた。
片思いだった頃の癖は、まだ抜けない。
自分でも呆れるほどだった。
気づけば夏也を探し、見つけてしまえば目を離せなくなる。
夏也は航太と並んで歩き、肩を揺らして笑っていた。
夏の光を受けて、濡れた髪から雫が落ちる。
その横顔を、杏捺は素直にかっこいいと思ってしまう。
眺めているだけで胸がきゅっとなる感じは、片思いの頃と何も変わらない。
ただひとつ違うのは、その人が今は自分の彼氏だということだけ。
けれど、どうして自分なんかと付き合ってくれたのか、まだうまく信じきれない。
そして、ふと視線がぶつかった。
杏捺は驚いて息をのみ、思わず背筋が伸びる。
以前までは、目が合ったらすぐ逸らしていた。
今は逆に、どう反応すればいいのかわからない。
戸惑いながらも、瞬きを繰り返すだけで何もできなかった。
夏也は、ほんの一瞬だけ、誰にも気づかれないように口元を緩めた。
気のせいかと思うほど微かに、でも確かに見えた微笑み。
杏捺の心臓が跳ね、体の芯まで熱が広がる。
夏也はすぐ、平然とした顔で横を向いて歩き出した。
隣で歩く航太はその小さな仕草にまったく気づいていない。
杏捺はタオルをぎゅっと顔に押し当てる。
頬が熱くて、隠さないとどうにかなりそうだった。
タオルの中で小さく悶えている彼女に、誰も気づかない。
ただ、夏也だけが、横目でその様子を確かめ、また何食わぬ顔に戻った。
◇
練習が終わり、ざわざわした声の中、杏捺は倉庫で備品を片付けていた。
ジャージを羽織り、首にかけたタオルで髪を軽く拭く。
半開きの扉から差し込む光が、誰かが通るたびに途切れる。
けれど、すぐ戻っていた光が暗いまま止まり、影が倉庫の床に伸びた。
空気がわずかに動いた気配に気づいて、杏捺は顔を上げる。
扉のところで光を遮っていたのは夏也だった。
「よ、おつかれ」
声はいつも通りなのに、表情は普段より柔らかい。
それにつられて杏捺も目を細め、頬が緩む。
「夏也先輩、おつかれさまです」
「……ん」
夏也は手に持っていたバインダーを棚に戻してから、ちらりと杏捺の方へ視線を寄越す。
その何気ない仕草だけで、杏捺はまた心臓が忙しくなる。
「今日、調子良いですね」
付き合い始めてから、杏捺の表情には少しずつ柔らかさが増えた。
それでも、夏也を前にすると胸がうるさくなるのは変わらない。
「杏捺も」
「私ですか?」
杏捺が首を傾げると、夏也は一拍置いて、少しだけ声を落とした。
「すげえ綺麗に泳ぐようになったな」
その言い方は、部長としての評価にも、好きな子への感想にも聞こえる。
どちらでも嬉しくて、高鳴る鼓動を抑えるように、杏捺はジャージの裾をそっと握った。
「あ、ありがとうございます……」
照れてしまうのを気づかれないように、声のトーンも表情も必死に整える。
ほんの数秒だけ、ふたりの間に静かな空気が落ちる。
倉庫内が静かになったことで、外のざわめきが耳に入ってくる。
その中で、ふと夏也を呼ぶ航太の声が聞こえた。
「夏也どこ行ったか知らねえ?」
「さあ」
そんな会話が近づいて来て、夏也は一瞬扉の方へ意識を向けた。
杏捺がビクッと肩を震わせて、表情をわずかに揺らす。
少しの寂しさと不安が、同時に心の中を巡る。
その変化に気づいたように、夏也がそっと杏捺の頭に手を置いた。
撫でるように触れてから離すと、唇の前に指を立て、いたずらっぽく笑う。
航太に話しかけながら外へ出て、杏捺を隠すように後ろ手で扉を閉めた。
「あー、悪ぃ悪ぃ。あの話なんだけど……」
扉が閉まったことで一層暗くなった倉庫の中で、杏捺はその場に立ち尽くしていた。
夏也の声が次第に遠くなり、辺りの音をすべて持ち去られたように静かになる。
「……ずるい」
杏捺はゆっくりと頬に手を当て、消え入りそうな声で呟いた。