「夏也先輩、私たち付き合ってるんですよね?」
夕日に染まった校舎は遠く離れ、二人は帰り道を歩いていた。
微かに波の音が届いて、静かに響く。
杏捺は、前を歩く夏也の背中に声をかけた。
立ち止まり、振り返った彼の顔は、いつも通りの穏やかさをまとっていた。
けれど、杏捺の問いに、わずかに眉を寄せる。
「……俺がそう言ったろ」
そう答える夏也に、杏捺は顔が少し熱くなった。
それと同時に、心の中でちくりと痛むような感覚が走った。
嬉しいはずなのに、どこか満たされない。
そんな矛盾が胸を刺していた。
夏也は、杏捺の納得していない表情に目を留めた。
「なんだよ? 不満か?」
「……だって私、彼女らしいことなんにもしてなくて……」
夏也は不思議そうに首を傾げ、言葉の真意を探る。
杏捺が言いかけては飲み込む、そのためらいが妙に引っかかった。
その違和感が、夏也の胸に小さな予感を生んだ。
まさか、自分が思っているようなことを望んでいるのか、と。
「えっと……その……」
杏捺が消え入りそうな声で呟いた瞬間、空気が変わった。
夏也の鋭い目が杏捺の瞳をじっと見つめる。
杏捺はいたたまれなくなって目線を落とした。
風がゆっくりと吹き抜けて、制服の裾がふわりと揺れた。
「お前、もしかして……そういうこと気にしてたのか?」
その声には呆れと戸惑いが混じって、ほんの少し冷たく聞こえた。
頭をかいて、困ったような表情の夏也を見て、杏捺の鼓動は早まっていく。
彼に触れる温度を、想像したことがないわけじゃない。
でも、それを口にする勇気は、ずっと出なかった。
ずっと、ずっと言えなくて、今日ようやく絞り出した言葉だった。
「ごめんなさい……夏也先輩は水泳に集中したいって、わかってるのに……」
その続きを探して、杏捺はギュッと拳を握りしめた。
好きだから、彼を感じていたい。
好きだから、確かめたい。
でも、そんなことを言ったら、迷惑かもしれない。
そんな気持ちが、心の奥底でつかえて、言い出せなかった。
長い影が、そっと杏捺に落ちた。
距離が縮まった気配に気づき、杏捺は顔を上げる。
夏也が、優しいけれどどこか辛そうな笑みを浮かべていた。
その表情のまま、柔らかな声が囁くように降ってくる。
「不満じゃなくて……不安?」
その一言に、杏捺の心はぎゅっと掴まれたように痛んだ。
夏也の声は、確かに自分を思いやってくれている。
それなのに、どこか少しだけ遠く感じて、寂しくなる。
今だって、待ちきれなくてこんな話を切り出してしまったのに。
待っているあいだに、自分の気持ちがすり減ってしまいそうで怖かった。
黙っていたら、きっと届かない。
杏捺は迷いながらも、ようやく口を開いた。
「わ、私……夏也先輩のこと、すごく好きなんです。だから……触れてほしいって思うのは、間違ってますか?」
その声はかすかに震えていた。
それでも杏捺は目を逸らさず、夏也の瞳をまっすぐに見つめ続ける。
夏也もまた、そんな彼女から視線を外さず、何かを言いかけて唇を閉じる。
――俺だって、どうしていいかわかんねぇよ。
その思いは声にならず、喉の奥で静かに渦を巻くだけだった。
返す言葉を探しても、うまく見つからない。
その沈黙が、杏捺には答えのように思えてしまう。
嫌われたかもしれない、という不安が、杏捺の心を締めつける。
「……間違ってない」
ようやく、夏也が口を開いた。
杏捺に届く声は低く、でも、はっきりと聞こえる。
彼女を見る視線がいつもより深く、どこか熱を帯びていた。
「俺だって、杏捺のこと……触れたいって思ってる」
杏捺は思わず目を見開いた。
気持ちをまっすぐに向けられて、心臓の音がどんどん大きくなっていくのがわかる。
夏也の大きな手が、そっと杏捺の頬に触れた。
その瞬間、杏捺は身体がびくりと震える。
驚きで動けないまま、頬がじんわりと熱を帯びていく。
指先が輪郭をなぞるように滑り、そっと顎を持ち上げられた。
下唇に触れた親指が、柔らかな感触を確かめるようにゆっくりと動く。
杏捺の顔がみるみる赤くなるのを見て、夏也は満足げに目を細めた。
「焦んなよ……そのうち、な」
そう言って夏也は手を離し、肩にかけていたカバンを持ち直す。
その動作は、まるで会話の終わりを告げる合図のようだった。
杏捺は何をされたのかやっと理解して、叫んでしまいそうな口を両手で覆った。
確かに触れられて、それ以上に心をさらわれた気がした。
かすかな希望と熱が杏捺の中に残る。
「そんな顔すんなよ。……可愛いけど」
その言葉と同時に、彼の手が杏捺の頭に触れた。
手のひらの感触は優しくて、でも照れを隠すみたいに荒々しかった。
夏也は杏捺に背を向けるようにして歩き出す。
「そういうのはもうちょい……慣れてから、でいいだろ?」
振り返るでもなく、完全に背を向けるでもなく。
夏也は肩越しにちらりと杏捺を見て、目を細めて笑った。
「……置いてかないでくださいっ」
杏捺のその言葉は、歩き出した夏也の背中だけに向けてじゃない。
追いつけない自分の気持ちにも向けた、ふたつ分の想いだった。
夏也の肩がほんのわずかに揺れて、そっと手を差し出した。
「じゃあまずは……手、繋いでみるか?」
杏捺は目を輝かせて、恐る恐る、けれど嬉しそうに指先を伸ばした。
手のひらを重ね合わせると、包み込むように握られる。
自分の手がすっぽり覆われている感覚に恥ずかしさが募った。
初めて繋ぐその温度は、お互い緊張で少し冷たくて、でも確かに温かい。
「お前の手、ちっさ。細くて折れそう」
「……夏也先輩のが大きいんですよ」
「まぁ……だな」
確かに夏也の手は大きく骨張っていて、関節の線が浮かんでいる。
自分のとは違う、どこか頼もしさを感じる手の感触。
そのくせ触れ方だけは驚くほど優しい。
「……緊張して、変に汗かいちゃいそうです」
「そんくらい気にすんなよ。俺もだし」
顔を見合わせると、どちらともなく歩き始める。
夕焼けが2人を包んで、1つの長い影になる。
歩幅が合わずに少し遅れると、夏也が逃がさないみたいに手を引いた。
次の瞬間、彼の指がするりと杏捺の指の間に滑り込んでくる。
一本一本丁寧に絡ませるように。
「な、夏也先輩……こんなの、余計に緊張します……」
「慣れろって言ってんだろ。ほら、行くぞ」
会話は途切れたままだったけれど、不思議と沈黙は気まずくなかった。
夏也が歩幅を合わせてくれる足音が、すぐそばで一定に響いている。
そっと横顔を盗み見ると、彼の耳がほんのり赤いことに気づく。
照れているのが愛おしくて、杏捺はこらえきれずに自然と頰が緩む。
夕闇が近づくにつれて、海風の冷たさが徐々に増していく。
繋いだ手の温度がいっそう際立ち、杏捺はそっと指に力を込めた。
それに気づいたのか、夏也も同じように握り返してくれる。
その温かさに、杏捺の緊張はゆっくりほどけていく。
不安をすべて溶かしてしまうような、優しい感触。
さっきまで胸の奥で燻っていた熱が、静かに、じんわりと溶けていった。