窓から差し込む光が、ざわめく昼の教室を照らしていた。
机を寄せ合い、夏也と尚はそれぞれ弁当を広げている。
周囲では友達同士の笑い声や、椅子を引く音が時折耳に入った。
尚は箸を動かしながら、ふと夏也の表情をうかがう。
「夏也、ちょっと聞きたいんだけど」
世間話の延長で、夏也が気の抜けた返事をする。
尚の声は落ち着いているのに、なぜか逆らえそうになかった。
「杏捺になにかした?」
「いや? まだなにも」
彼女の名前が出るとは思わなかった。
何食わぬ顔でミニトマトを箸で取り、勘付かれないよう即答した。
そのはずなのに、尚の視線が夏也を射抜く。
「……まだ?」
「あ、っ」
箸を持った夏也の手が途中で止まる。
顔を上げると、頬杖をついた尚と目が合った。
「なに……なんかするつもりではいるってこと?」
「ち、違っ……いや、違わないけど……!」
一気に頰を赤らめて照れたように夏也が声を上げた。
箸からミニトマトがぽとりと弁当箱へ戻る。
尚はただ、穏やかな眼差しで事実を確認するように夏也を見た。
「ふーん、なるほどね」
なにか確信めいた声に、夏也は困ったように眉を下げた。
「ま、そんな感じはしたんだけど」
「……尚、ほんとそういうのやめろって」
「夏也さ、隠すの下手なんだよ。杏捺もちょっと変だったし。2人とも、分かりやすすぎ」
肩をすくめて笑うと、何事もなかったように箸を動かし始めた。
昼休みのざわめきが、少しだけ遠く感じる。
「なんで隠してるの?」
「バレたら周りの反応が怖いから、言いたくないってよ」
夏也は口の中のものをごくん、と飲み込んで小さく答える。
尚はああ、と納得したように呟いた。
「杏捺らしいといえば、らしいか」
声にとげはなく、むしろ理解を含んだ柔らかさがある。
「……気持ちはわかるよ」
「俺は別にいいんだけどさ、あいつが嫌がることしたくないし」
口に出した瞬間、杏捺の顔が浮かんだ。
あの時の、涙を流す彼女の瞳が脳裏をよぎる。
尚はふっと微笑んだあと、真面目な顔つきになり、諭すように言った。
「でもさ、今だけなら良いかもしれないけど、ずっと隠し続けられる?」
確かに、尚の言う通りだった。
不安が頭をよぎる。
尚は夏也の様子に気づいたのか、穏やかな声で続けた。
「まぁ、もしバレても杏捺を守ってやればいいだけだろ」
「ああ……わかってる」
◇
朝、プールへ続く小さな階段は、あまり人が来ない。
水泳の授業がない限り、誰もこの先のプールに用事がないからだ。
部室へ続く階段を一段降りたところに、杏捺はそっと腰を下ろしていた。
太陽から隠れるように、壁際に寄って影へ入る。
昨日の部活終わり、杏捺がみんなと正門まで歩いている時のこと。
同じくこれから帰るであろう夏也が、後ろからふいに近づいてきた。
横を通り過ぎる瞬間、誰にも聞こえないように小さく言った。
「明日の朝、部室前に来てくれ。ちょっと、話したいことがあるから」
そう言って走って帰っていく夏也。
返事をする間もなく、杏捺はその背中を見送ることしかできなかった。
その一言が、今の今までずっと頭の中に残っていた。
話したいことが何なのか、考えるほどにわからなくなる。
正門から聞こえるざわめきが、ここまで届くときには薄い音になっている。
静けさが、かえって胸の鼓動を強く感じさせた。
近づいてくる足音がして、顔を上げる。
階段の影からそっと覗くと、見慣れたシルエットが朝の光を背負って現れた。
その髪が揺れるたび、光の粒が跳ねるようで、杏捺は思わず息を呑んだ。
「悪ぃな、急に呼び出して」
「はいっ……あ、いえ、大丈夫です」
急に謝られて言い淀む。
落ち着きたいのに、心だけが先に走っていく。
夏也は階段を上がりきると、迷いなく杏捺の隣に腰を下ろした。
「話なんだけど……」
手を伸ばせば届く距離。でも触れない程度に。
杏捺は座る場所を確保するように壁に寄りながら、そっと息を整えた。
「ごめん、杏捺。バレた」
「えっ」
申し訳なさそうに眉を下げ、両手を合わせる夏也。
その仕草が妙に可愛くて、驚くどころか拍子抜けしてしまう。
「尚にカマかけられて……いや、そんなつもりはなかったっぽいけど……」
「あ、尚先輩ですか?」
杏捺が納得したような声で言った。
尚なら察してもおかしくないし、言いふらす心配もない。
途端に安心して、力が抜けた。
「それはもう、しょうがないですよ……というか、尚先輩には遅かれ早かれバレるの確定してるんですよね」
「なんでだよ」
「私が夏也先輩を好きって、入部してすぐに気づかれましたもん」
言ってから、杏捺は自分の言葉の大胆さに気づく。
両手をもぞもぞと動かして、目を泳がせた。
「なんだ、杏捺……俺のことそんな前から好きだったんだな?」
「……そうですけど……ヤでした?」
「嫌なわけねーだろ。嬉しいよ」
その言葉は迷いなくて、杏捺の胸が一気に熱くなる。
一目見たときから、なんて、まだ言えそうにない。
「あー、やっと言えた。杏捺がすげー嫌がるんじゃないかと思って、なかなか言えなくてさ」
そう言って小さくため息をつく夏也に、杏捺は慌てて首を横に振った。
つい最近までただの先輩と後輩だったのに、今は違う。
2人きりになると、今まで通りにはいかなかった。
「お前、今日ちょっと落ち着かねぇな」
夏也が何気なく、ゆっくり距離を詰めてくる。
その気配だけで杏捺は背筋を伸ばした。
「そ、そうですか?」
「……なんかさ、最近の杏捺、可愛い」
「っ……!」
からかうような声なのに、目だけは真っ直ぐで。
その視線に触れた瞬間、杏捺の呼吸が浅くなる。
逃げるタイミングを完全に失って、緊張で肩を跳ね上げる。
「……キス、していいか?」
「え……」
消え入りそうなほど静かな声。
杏捺は一瞬、何を言われたのかわからなかった。
理解するまえに、夏也が近づいてくる。
頭の中が真っ白になった。
「待っ、あの……っ!」
反射的に顔を反らした拍子に、後頭部が壁にぶつかる。
「っ……!」
「悪ぃ、大丈夫か?」
鈍い音に夏也が驚いて目を見開き、すぐに手を伸ばした。
頭を撫でる動作がまた優しくて、心が追いつかない。
杏捺は打った頭ではなく、真っ赤になった顔を両手で覆った。
声が震えてしまうのを止められなかった。
「無理……かっこよすぎて、本当にダメです……」
夏也が一瞬ぽかんとしたあと、怪訝な顔をして頭をかく。
彼女の反応に、ため息をついた。
怒っているというより、呆れてしまった。
「……お前な」
「す、すみません……」
杏捺は本音が漏れてしまって、余計に恥ずかしかった。
触れてほしいと、この前告げたばかりなのに。
気まずい空気を裂くように予鈴が鳴る。
夏也は見えもしないのに校舎のほうを向いた。
杏捺も顔を上げて、手をゆっくり口元に移動させる。
顔を見合わせ、やっと視線がぶつかると、夏也は拗ねたように唇を尖らせた。
「俺は別に、急かさねぇけどさ。逃げられっぱなしは……ちょっとムカつく」
そう言って眉を寄せる夏也に、杏捺はまた頬を赤くさせた。
彼女の表情を確かめてから、夏也は少し声を落として苦笑する。
「……そんなんばっかだと、嫌って言っても止められねぇ時が来るぞ」
その言葉に、杏捺の胸がまたうるさくなる。
夏也も言いながら照れたのか、足先で彼女の靴を軽くつついた。
「その時は、逃げても無駄だからな?」