心が追いつかない

公園の木陰に入った途端、熱気がふっと遠のいた。
ひんやりとした影が肌に落ち、風が葉を揺らしている。

「……涼しいですね」
「な、言った通りだろ?」

夏也の横顔を見ながら、杏捺は誘われた時のことを思い返す。
週末の予定はないと答えたら、少し遠出しようと行き先まで決めてしまった。
今こうして一緒に来ているのが、まだちょっと不思議だ。

風が木々を揺らし、ざわりと音を立てる。
それをぼんやり眺めていると、横で気配がふっと軽くなった。
視線を向けると、夏也がベンチに腰を下ろしていた。

「こっち、座れよ」

そう言われて、ほんの少し離れた位置に座る。
隣に座るだけでも落ち着かないのに、夏也が無言のまま身体を寄せてきた。

「……っ」
「そんなに離れんなって」

軽く言われただけなのに、固まって動けなかった。
彼女の反応に気づいて、夏也は口元をほんの少しゆるめた。

「緊張してんのか?」
「……して、ます……」
「素直でよろしい」

軽く笑われたけれど、どこか優しさが滲んでいる。
杏捺は膝の上で指先をもじもじさせながら俯いた。

「でもお前、デートの度にそんな緊張してたら身がもたねえぞ」

杏捺は大きな瞳を2、3度瞬かせて、顔を上げた。
きょとんとしたあと、頰を赤らめて困ったように眉を下げる。
徐々に変わっていく彼女の表情に、夏也は首を傾げた。

「デート……だったんですか?」
「……なんだと思ってたんだ」

沈黙を埋めるように、頭上の木々から蝉の声が降り注ぐ。
杏捺は夏也が返事を待っているのだと気づき、言葉を探して言い淀んだ。

「えっと、トレーニングでもするのかと思ってました」

夏也が一瞬固まるのに気づいて、慌てて言い訳のように続ける。

「夏也先輩、急に走り込みとか始めそうで……」
「お前までそんなこと言うのかよ」

拗ねた響きが混じっていて、杏捺は思わず口元を押さえた。
夏也は横目で彼女を見て、呆れたように小さく息をつき、視線を前へ戻す。

「……最近頑張ってるからな。息抜きも必要だろ」

そう言った夏也は、遠くを見つめて目を細めた。
杏捺は彼の横顔をそっと盗み見る。
落ちる影のせいか、いつもより大人びて見えた。

近いのに、触れる勇気は出ない。
それどころか、どこか手の届かない場所にいるような静けさがあった。

視線に気づいたのか、夏也がふいに彼女のほうを向く。
杏捺は慌てて目を泳がせたが、見つめていたことは完全に伝わってしまった。

「ま、お前が走るなら追いかけるけどな」
「えっ」
「当たり前だろ。逃げたら捕まえてやる」

そう言われて、杏捺の思考は一瞬で真っ白になった。
捕まえるって、腕を掴まれる? それとも、もっと近くに?
考えれば考えるほど、耳の先までじんわり熱が広がった。

「ま、今日は練習のことは置いといて……」

夏也はベンチの背もたれに軽く身体を預けた。
けれど、何か思いついたように、すぐに起き上がる。

「練習、か……」

夏也は小さく呟いて、横目で杏捺を見る。

「よし、やるか。練習」
「へ? 走るんですか?」
「違ぇよ。お前が俺に慣れとく練習」

トーンを落とした声は、さっきまでの軽さとは違う温度を帯びている。
優しく言っているのに、どこか本気の熱が混じっていた。
杏捺が言葉を失っているのを見て、夏也は彼女のほうへ向き直る。
触れはしない。けれど、距離がほんの少し縮まる。
その瞬間、彼女の身体が跳ねて、肩がわずかに強張る。

「そんなに構えんなって。ゆっくりするから」

夏也がそう言いながら、手を差し出した。

「……まずは、手。触るだけな」

促されるように、杏捺はおそるおそる指先を伸ばした。
触れた瞬間、夏也の手の温度がじんわりと伝わってくる。
彼女の指はひどく冷たくて、緊張がそのまま温度になって表れているようだった。

「マジで余裕ないんだな……」

小さく漏れた声は、呆れよりもむしろ愛しさに近い響きを含んでいた。
杏捺がその温もりに意識を奪われていると、ふいに夏也の指が動いた。
絡め取るように、ゆっくりと指の間に入ってくる。
逃げ道を塞ぐような強さじゃなくて、ただ確かめるみたいな優しい力で。

「これはできるよな?」
「ドキドキは、しますけど……」

絡めた手を軽く握ったり、手の甲を指でなぞったり、夏也は慎重に触れ方を変えていく。
杏捺の反応を一つひとつ拾い上げるように。

そして夏也は、絡めた指を解いて、手をそっと持ち上げ自分の頬へ導く。
肌に触れた瞬間、杏捺の肩がびくりと震えた。

「これなら平気か?」

手はまだ冷たくて、夏也はその温度を受け止めるように目を細めた。
指先がかすかに動いたのに気づいて、静かに視線を向ける。
頬に触れた彼女の手をそっと包んだまま、ほんの少しだけ顔を近づけた。
影が重なるほどの距離。杏捺の呼吸が一瞬止まる。

「っ! ひゃ、あ!」

杏捺は反射的に身体を引いて、息を詰まらせた。
自分でも信じられない声に、さらに真っ赤になる。
驚いて夏也は手を離し、彼女の挙動を見て静かに理解した。

「……お前、すぐ顔に出るよな」
「見ないでください……」

そう言って両手で顔を覆うのを見て、確信する。
顔が近いとダメなのか。
この調子じゃ、キスなんてまだできそうにない。
もちろん急かすつもりはないけれど、やっぱり慣れてもらわなきゃ困る。

杏捺が胸に手を当ててぎゅっと目を瞑る。
心臓の音を落ち着かせようとしているのが見て取れた。
その姿が可愛くて、いじらしくて、どうしようもない。

じっと見つめていると、ひとつの考えが浮かんだ。
キスするときはどうせ目を瞑る。
なら、先に瞑らせておけばいいんじゃないか。

杏捺
「……はい」
「ちょっと、こっち向いてそのまま目、瞑ってろ」

杏捺は不思議そうな表情をした。
けれど素直に言われた通り彼のほうへ向き、ぎゅっと目を閉じた。
風に混じって、夏也の匂いがふわりと触れる。
影が落ち、まつ毛が震える。

「や、ちょっ……だめです! なんか企んでますよね!?」

近づく気配に気づいた杏捺が、慌てて両手を顔の前に出す。
目を開けた視界に、夏也がそっと離れていく姿が映る。
彼がすぐそこまで迫っていた。

「逃げんなって。今日は何もしねえよ」
「ぜ、絶対ウソです! 隙あらば、みたいな顔してました!」

杏捺は反射的に身体を縮こませ、裏返った声で言った。
バレたか、なんて思いながら小さく笑う夏也。
伸ばした手で彼女の髪をくしゃっと軽く乱した。
それから、落ち着かせるように指先で優しく梳く。
触れたところから、肩の力が少しずつほどけていくのが分かる。

「よし、じゃあ今日はこれくらいにしといてやるか」

言葉よりも仕草のほうが空気を変えていた。
杏捺の頭に置いた手を軽く離し、夏也はそのまま立ち上がる。

「これ以上やったら、お前ほんとに固まるだろ」

そう言って夏也は背筋を伸ばす。
杏捺はそっと彼を見上げた。
広い背中に木漏れ日が映って、風で影が揺れる。

「……そろそろ、覚悟しろよ」
「え?」

葉がざわざわと音を立て、夏也の呟きはかき消された。

「まだデートは始まったばっかだし、これからもっと連れ回すから覚悟しとけ」
「つ、連れ回すって……」

杏捺が小さく抗議すると、夏也は数歩だけ歩き出し、ふと立ち止まった。

「じゃ、杏捺が引っ張ってもいいけど?」

振り返った夏也が、手を差し伸べる。
その手は、どこか頼もしくて、どこか意地悪そうでもある。
杏捺も立ち上がり、駆け寄るようにしてその手を取った。

「えっと、あの……お願いします」
「よし」

夏也は満足そうに笑い、杏捺の手をしっかりと握り返した。
その温もりに、彼女の心臓はまた忙しく跳ね始める。