熱と距離

杏捺は大きなファイルを胸に抱えながら、ひとり部室に立っていた。
引退した先輩の3年間の記録が詰まったそのファイルは、実際の重さ以上にずしりと感じられる。

3年生が引退してから、部の空気はどこか静まり返ったようだった。
部室の荷物は少し減り、いつもと同じ広さのはずなのに、空間がぽっかりと広がって見える。
それでも、先輩たちが使っていた備品や資料が、ところどころに取り残されたままだ。
部室には先輩たちの声がまだ残っているようで、心細い気持ちが胸に灯った。
来年、夏也たちが引退して卒業するときは、どれほど寂しいんだろう。
杏捺は考えないように首を振った。

手を伸ばして棚にファイルを戻そうとしたが、奥まで入らなかった。
よく見ると、影の中に沈むように置かれた段ボール箱が目に入る。
いつからあるのか分からない空き箱は、押し込まれるように棚に挟まっていた。

「なにこれ……?」

杏捺はファイルを置いて段ボールに手を伸ばした。
棚にピタリと嵌ったそれは、なかなか出てこない。
ガタガタと引き出そうとして、ふと頭上に違和感を覚えた。
棚の上に立てかけられていた展示用のパネルボードが、ぐらりと揺れる。
気づいたときには、すでに遅かった。
傾いたのが見えて、棚の上で倒れたパネルがそのまま落ちてくる。

ぶつかる、と思った瞬間、視界が揺らぐのと同時に腕を強く引かれた。
ジャージの感触が頬に当たる。
パネルの落ちた音が部室に響く。
その音に紛れて心臓の鼓動が耳に届く。
何が起きたのか理解できず、ただ目を瞬かせた。
杏捺の身体は、気づけば誰かの胸に抱き寄せられていた。

「……大丈夫か?」

耳元で声がした。低くて、少しだけ焦ったような声。
顔を上げると、すぐそこに夏也の顔があった。
近い。近すぎる。
杏捺の顔が、じわじわと熱を帯びていった。
声が震えそうになるのを、なんとか押しとどめる。

「……はい……」

夏也は、杏捺を見て言葉に詰まる。
驚きと戸惑いと、少しの涙が瞳の中で光を揺らしている。
赤く染まった頬、華奢な身体。
夏也の腕はまだ、杏捺の背中に回ったままだった。
離すタイミングを見失ったように、ほんの数秒、動きが止まる。
ふわりと甘い香りがして、夏也の指先がわずかに強くなる。
抱きしめた感触も暖かくて、柔らかくて。

「……っ」

足音が近づいてくる。
夏也が小さく息を飲んで、腕をほどいた。
けれどその手は、名残惜しそうに杏捺の肩を撫でてから離れた。

「今の音、なに!?」

勢いよく部室の扉が開いて、数人の部員が顔を覗かせた。
杏捺は思わず夏也から一歩離れたが、頬の熱はまだ引かなかった。
ほんの一瞬の出来事。けれど2人には、その数秒がやけに長く感じられた。

「……棚の上から落ちてきた。場所移すから誰か手を貸してくれ」

指示を出す夏也の背中を見ながら、杏捺はその場にへたりこんだ。

杏捺?」

動かない杏捺に、誰かがぽつりと声を漏らす。
部員たちの視線が杏捺に集まるのを見て、尚がすかさず声をかけた。

「夏也が急に引っ張るからだろ。杏捺、大丈夫?」

尚は空気の重さに気づいて、杏捺に寄り添うようにしゃがみこんだ。
杏捺の真っ赤な顔と、夏也の微妙な間。
何かあったことは、聞かなくてもわかる。
尚はあえて、引っ張られたショックという理由を作って、場を軽くした。

「悪ぃ、危なかったから思いっきり掴んじまった」
「びっくりしたよね。立てる?」

夏也がパネルを持ち上げながら尚の言葉に合わせる。
杏捺が小さく頷くと、部員たちの表情が少し緩んだ。

「マジか……怪我なくてよかったな」
「うわ、これ結構重いじゃん」

杏捺は尚に小さくお礼を言うと、静かに立ち上がった。
部員たちがざわざわと話しながら、空気は少しずついつも通りに戻っていく。

 ◇

部活が終わり、帰る途中。
夏也は尚と別れたあと、帰り道を逸れて川の方へ向かう。
波の音が、遠くで静かに繰り返していた。
水の流れる音が近くなるのを感じながら、夏也は慣れたように脇道に入った。
細い路地の空き家の裏側で、杏捺が塀に背を預けて立っている。

そこは、生徒たちの通り道から少し外れた、2人だけの待ち合わせ場所だった。
会うのは時々で、合図はいつもさりげない。
部活終わりに交わす目配せひとつで、その日の帰り道が特別なものに変わるのだ。

「よっ」

足を止めて、夏也が軽く手をあげて声をかける。
杏捺は夏也の姿を確認すると、すぐにカバンを下ろして頭を下げた。

「夏也先輩、ありがとうございます。さっき、助けてくれて……」

杏捺はどこか遠慮がちに、申し訳なさそうに眉を下げた。
礼を言われ、夏也は思わず2、3度瞬きをした。
助けた瞬間に、成り行きとはいえ抱き寄せてしまったことを思い出す。
どうにも落ち着かないのを誤魔化すように、夏也は後頭部をかいた。

「あー……」
「お礼を言うタイミング逃しちゃって……」
「いや、お前に怪我がなくて良かったよ」

杏捺もやはりまだ気まずいのだろうか、顔を上げたあとも視線を逸らしたまま。
夏也は覗き込むように杏捺を見ると、からかうような、どこか嬉しそうな声で言う。

「あんな真っ赤になるなんてな」
「い、言わないでください……」

顔を両手で隠す杏捺を見て、夏也は小さく笑った。
あの時はただ守らなきゃと思っただけだった。
けれど、抱き寄せた瞬間が、思いのほか強く記憶に残っている。
潤んだ瞳も、真っ赤になった頬も、伝わった温度や香りも。
思い出そうとしなくても蘇ってくる。
その一瞬が妙に鮮明だった。

杏捺。逃げるなよ?」
「え?」
「……もう1回」

夏也が杏捺の肩に優しく触れる。
彼女はやっと目を合わせ、言葉の意味を理解した瞬間、また顔を赤くさせる。
事故じゃなくて、今度はちゃんと。杏捺はそう思っただけで、息が詰まりそうだった。
真剣な夏也の表情が、冗談や嘘じゃないとわかって、言葉が出ないままひとつ頷く。

「これから何回抱きしめても真っ赤にならないように、慣れとけ」

そう言って、今度はゆっくりと、迷いなく杏捺の肩を引く。
杏捺は抵抗せず、ゆるく抱きしめられながら、ただ夏也の言葉を頭でくり返していた。

「……慣れるまで、まだかかりそうです」

杏捺も、ためらいながらそっと夏也の背中に手を回す。
加減がわからないままでいると、彼の腕が少し強くなった。

「なんか……震えてねーか?」
「だ、だって……」

杏捺は夏也の肩に額を当てながら、言葉を探すように口元を動かした。
頬の熱は上がっていき、余計に恥ずかしい。
それでも、夏也の腕の中から離れたくはなかった。
服越しに伝わる体温が、じんわりと胸に広がっていく。

「すげー、心臓の音」

夏也がくぐもった声で笑って、杏捺は唇を尖らせた。
自分だけがこんなにドキドキしているみたいで悔しい。
2人の隙間を埋めるように、回した腕を静かに引き寄せた。
耳を肩に当てると、少し早い鼓動が聞こえてくる。

「……これだけ近かったら、夏也先輩のも聞こえます」
「俺だってちょっとは緊張してんだよ」

夏也の声が、耳元で少しだけ揺れていた。
その不器用さが、杏捺にはたまらなく嬉しかった。
言葉にしなくても、ちゃんと伝わってくる。
この距離で、心音が聞こえるほど近くにいることが、何よりの答えだった。