部員に解散を告げてから、ずいぶん経つ。
誰も居ないプールで、夏也はひとりターンの練習を続けていた。
オレンジ色に染まる空の下、水は名残惜しそうに光を映している。
夏の終わりが近い。プール納めは恐らく数日後だろう。
こうやって練習できるのも、もう数えるほどしかない。
その思いが、夏也の心のどこかで焦りめいた感覚を起こしていた。
夏也がふと顔を上げると、飛び込み台の横にしゃがむ人影があった。
水着の上から着た白いTシャツが、肌に張りついている。
杏捺だった。とっくに帰ったと思っていたのに。
「……なにしてんだ」
夏也は水泳帽とゴーグルを勢いよく外し、声をかけた。
杏捺は膝を抱えた腕に顎を乗せて、肩をすくめながら視線を泳がせる。
居心地の悪さを隠す仕草だったが、帰る気はなさそうに見えた。
「な、なんとなく……」
軽く言ったのに、喉の奥に熱がこもっていた。
なんとなくで残るような時間じゃない。
夏也は眉をひそめたが、杏捺の曖昧な表情に、追及する気にはなれなかった。
「……お前、濡れるぞ」
「もう濡れてますよー」
揚げ足取りみたいな口調に、夏也はムッとした。
ふざけているというより、照れ隠しなのはわかっていた。
「んじゃ、もっと濡れろ」
夏也が杏捺の腕をつかむと、彼女の身体がふわりと傾いた。
重力に引かれるように、水面へ向かっていく。
「ちょ、わっ……!」
杏捺の声が跳ねて、次の瞬間、身体がプールに落ちた。
ばしゃんと水音が弾け、水の冷たさが肌を撫でる。
夏也は迷いなく、それを追って水中に潜った。
泡に紛れて、杏捺は背中から沈んでいく。
ぼやけた輪郭が、青の中で無防備に漂っていた。
驚いたように見開かれた杏捺の瞳が、まっすぐ自分を映している。
どうしようもなく、触れたい。
奪いたいほど、惹かれた。
気持ちが理性を追い越して、触れてしまえと思った。
もう、気持ちを抑える理由が見つからない。
杏捺の腕を引き寄せ、頬へ手を伸ばした。
一瞬、杏捺が息を止める。
まるで時間ごとふたりだけが閉じ込められたみたいに、泡の立たない静かな青。
その穏やかな世界で、夏也は唇に触れるだけのキスをした。
衝動的なのに、どこまでも真剣だった。
杏捺は目をぱちくりさせ、何か言おうとして口を開く。
泡が立ちのぼり、夏也は思わず笑って彼女の手を引いた。
ふたりが水面へと浮かび上がる。
ぷは、と息をして、杏捺は濡れた前髪を流しながら夏也を睨んだ。
「ちょ、っと……! 夏也先輩!?」
杏捺の声が少し裏返って、頬がどんどん真っ赤になっていく。
「……なんだよ。落ちてきたのはお前だろ」
「引っ張ったのは夏也先輩ですよね!? というか、そういう話じゃなくて!」
怒っているのか、照れているのか、杏捺は自分でもわからなくなっていた。
言い合いになりかけた瞬間、夏也が髪をかき上げてふっと息を吐く。
「あーもう、うるせえな」
ぶっきらぼうに言いながら、杏捺の後頭部に手を添えた。
丁寧でも優しくでもなく、ただ少し強引に。
彼女は肩を跳ね上げ、動けずにいた。
そして、夏也はもう一度唇を重ねた。
今度は目を閉じて、少し長く。柔らかな感触を味わうように。
顔が離れると、杏捺は口を半開きにさせた。言葉が出ない。
驚きと嬉しさと興奮が喉の奥で絡まり、口はなんとか動かせるのに声が出ない。
その様子が可笑しくて、夏也は吹き出した。
「ふはっ」
「……わ、な、なんで笑うんですか……!」
「いや、だって……お前、魚みたいだったから」
夏也が笑うと、それに合わせて水面が揺れた。
その様子に緊張が解け、杏捺は咄嗟に言い返す。
「夏也先輩のせいですよ! ちゃんと言ってからしてください!」
杏捺の声は震えていて、首まで真っ赤だった。
夏也はその様子を見て、ニヤリと口元を緩ませていたずらっぽく茶化す。
「言ったら逃げるだろ」
「もう逃げませんって……」
水の匂いと、夏也の体温と、まだ唇に残る感触。
杏捺は指先で自分の唇に触れ、そっと視線を落とした。
夏也も、吸い寄せられるように濡れた唇を見る。
水面の光が、ふたりの肌に映り込んで揺れている。
「……水の中で、なんて……不意打ちすぎです……」
杏捺の声は小さく、でも確かに夏也に届いた。
水は冷たいのに、キスだけ暖かい。
こんなふうに触れられたら、忘れられなくなりそうだった。
「文句言わないし、おとなしくて好都合だったな」
「なっ……意地悪!」
杏捺が鋭い視線を向け、夏也の胸を軽く叩いた。
水が跳ね、夏也が笑いながら顔にかかった水を手で拭う。
まだ攻撃してきそうな杏捺の手を捕まえて、夏也は優しく声を落とす。
「……目、閉じてろ」
その言葉に杏捺は一瞬目を見開いて、でも素直に瞼を閉じた。
夏也の大きな手が彼女の頰を包み、再びキスが重なる。
触れるだけの、でも確かな感触。
目を合わせるのが照れくさくて、杏捺は離れたばかりの彼の唇を見つめていた。
「キスって、こんなに胸が苦しいものなんですか……?」
「俺だってわかんねぇよ」
杏捺が胸元に手を添えて尋ねると、夏也は目を伏せて笑った。
「確かめるために、もう1回……してみるか?」
「えっ」
そう言って、反応を探りながら近づく夏也。
杏捺が反射的に背を反らすと、逃さないと言わんばかりに腕を引き寄せた。
「逃げないんだろ?」
杏捺は彼の肩にそっと手を置き、頬を染めて瞼を下ろす。
その濡れたまつげに近づきながら、夏也も目を閉じた。
ふたりが、静かに重なっていく。触れては離れ、何度も。
名残惜しそうに唇を離して、でも吐息が肌に触れるほど近いまま。
鼻先が微かに触れて、少しくすぐったい。
「……なんかもう、わけわかんねぇくらい心臓がうるさい。たぶん……お前とだから、だと思う」
夏也の視線が、杏捺の唇に一瞬だけ留まってから、ゆっくりと上がっていく。
目が合った瞬間、身体の奥が熱を帯びていく。
「っ、ずるいです……そんなこと言うの……」
「ずるくてもいい。杏捺だけに言うから」
夏也が首を傾けて得意げに微笑む。
杏捺は返事に困って夏也を見つめた。本当にずるいと思った。
わかってるだろ、とでもいうような声色が、悔しいくらいに嬉しい。
彼女の目は、好きだと伝わるくらい、言葉よりも先に甘い気持ちをこぼしていた。
「私だって、夏也先輩じゃなきゃ、ダメです……」
その声が、水面に落ちる雫と一緒に静かに響く。
杏捺は腕を夏也の首に回し、体を寄せて抱きついた。
そのまま肩に額を預けると、彼の体温がじんわりと伝わってくる。
「……自分で言って、恥ずかしくなっちゃいました」
「なんだよ、それ」
杏捺の笑う声が、くすぐったくて甘い。
それにつられて夏也も笑って、杏捺の頭を優しく撫でる。
「……そろそろ帰んなきゃな」
「あっ、ほんと、日が沈んじゃう!」
その言葉は、日常への静かな合図だった。
杏捺はパッと身体を離し、軽く息を吐いて水に沈む。
波を切るように進んで手すりの前で顔を出す。
夏也もちょうどプールサイドへ身体を引き上げるところだった。
杏捺が水から上がり、重力が戻るようにTシャツが滴って肌に張りついた。
それを脱ぎながら振り返ると、濡れた足跡がプールサイドに並ぶ。
「……ほら、タオル」
夏也が杏捺の頭にタオルをかけて、ふわりと撫でた。
指先が耳に触れた瞬間、杏捺は目をぎゅっと瞑る。
その仕草に夏也は一瞬止まり、照れ隠しのように髪を拭いた。
頭をポンと叩く彼に、またキスをされるかもと期待した自分が恥ずかしい。
でも、それくらい夏也の手は優しかった。
「帰るぞ」
その声はぶっきらぼうで、でも穏やかさが滲む。
杏捺は脱いだTシャツを絞りながら、短く返事をした。
軽い足取りで扉へ向かい、タオルを羽織りながら振り向く。
「夏也先輩、早く帰る準備してくださいね?」
そう言って、先に更衣室へ入っていく。
夏也はその背中を見送りながら、濡れた髪を手でかき上げて目を細める。
「……ずるいのは、どっちだよ」
誰にも聞こえないように、ぽつりと呟いた。
その声は、風に紛れて、静かに空気に溶けていく。
水面に残った光は、夜に近づいていた。