夕闇の手前

部活の後、夏也のさりげない合図で、杏捺は帰り道にいつもの場所へ寄る。
脇道に入って、細い路地の、空き家の裏側。
塀に背を向けると、影の範囲が以前よりずっと大きく伸びていた。
冷えた風が抜け、杏捺は小さく肩を震わせる。
ぎこちなく腕をさすり、長袖のセーラー服が思ったより頼りないことに気づく。

プールが使えなくなってから、水泳部の活動は一気に変わった。
夏也の力強く泳ぐ姿を見る機会もなくなって、杏捺は少しの寂しさを抱えていた。

こうして会えることが嬉しくて、でも胸のどこかがきゅっと痛む。
会うたびに、夏也の気持ちが掴めなくなる。
自分ばかりが満たされているようで、ふと怖くなった。
薄く広がる雲の流れを見ながら、杏捺はため息をつく。

そのとき、聞き慣れた足音が近づいて、杏捺は姿勢を正した。
空き家の影から現れた夏也が、片手を上げる。

「よ、おつかれ」
「お疲れ様です」

夏也の声を聞いた瞬間、胸の奥に張りつめていた糸がふっと緩んだ。
けれど同時に、鼓動が早まって落ち着かない。
夕暮れの薄明かりの中で、隣に立つ夏也は少し大人びて見えた。

「日が落ちるのが早くなってきたな」
「夏也先輩とこうして会える時間も、少なくなっちゃいますね……」

杏捺の声を聞きながら、夏也は空の色をちらりと見上げた。
夏也の気遣いで、いつも日が暮れる前には帰っている。
その習慣は、お互いの距離をそっと守っているようにも思えた。

ふたりの間に、静かな時間が流れた。
気まずい沈黙にならないよう、杏捺はとりとめもない話をする。

「ちょっと、寒くなってきましたね」
「そうか?」

返事を聞くより早く、夏也が杏捺の手を掴む。
杏捺は反応する間もないまま、彼の腕の中に収められた。
動けないままの杏捺の身体を、夏也はぎゅっと強く抱きしめた。

「わ……!?」

驚きと、嬉しさと、どうしようもない戸惑いが一度に押し寄せる。
なぜこんなことになっているのか、理由を考える余裕すらなかった。

ふと、頰に当たる固い感触に違和感を覚えた。

「いたっ……」

夏也がその声に気づいて身体を少し離すと、杏捺の目の前で金色が揺らめいた。
学ランのボタンが当たってしまったらしい。
夏には感じなかった硬さが、ひやりとした空気の中でやけに存在を主張していた。
その感触は、季節が移り変わったのだと確かに実感する。

「あぁ、悪い……」

夏也は学ランのボタンに触れると、ゆっくりと前を開いた。
杏捺が逃げる間もなく、引き込まれるように夏也の服の中へ。
学ランの中に杏捺を閉じ込めるように、夏也は腕で包む。
杏捺の視界は夏也のシャツだけになった。
背中側には、学ランの裏布の温かさが当たっている。

「ちょっ、夏也先輩!?」
「こうすれば寒くないだろ」

夏也の低い声が、すぐ近くで聞こえた。
捕らえられたような体勢。
別の理由で、杏捺の体温は上がりそうだった。

体に伝わる熱と鼓動が合わさって、杏捺の頬は次第に熱くなっていく。
ぴったりとくっついたまま、夏也は杏捺を離すつもりはないらしい。
動揺した杏捺は、心を落ち着けようと、ゆっくり呼吸する。
しかしそれが逆効果だった。
夏也の匂いを意識してしまい、心臓がどくりと跳ねる。

「……固まったか?」

夏也の腕の中で、杏捺の思考は完全に混乱していた。
ふと腕が緩み、額に柔らかいものが当たって、思わず身体が強張る。
キスをされた、と気づいたのは、数秒後のこと。
杏捺が顔を上げると、いたずらっぽく笑う夏也と目が合った。

「だいぶあったまったみたいだな」
「……おかげさまで」

夏也の声音は、甘く、意地悪に響いた。
杏捺はいじけたような声で言いながら、唇を尖らせる。
夏也は杏捺の頭を撫で、頬に優しく触れた。
指の腹が肌を滑っていくたび、くすぐったくて、けれどどこか心地よくて。
杏捺は夏也の体温を感じながら、溢れる想いをこらえていた。
何も言えず、されるがままになってしまう自分が恥ずかしい。

「かわいい」

小さく囁かれる言葉に、杏捺はさらに赤くなった。
照れて俯いたものの、今度はすぐに顎を持ち上げられて視線が絡む。
夏也の瞳が、まっすぐにこちらを見下ろしている。

再び額にキスが落とされ、思わず息を呑んだ。
反応を確かめるように夏也は視線を落とし、次は頰に唇を落とす。
そして、今度は耳元へ。
抵抗することもできず、ただ身を預けるしかなかった。
ふと、夏也の顔が近づき、杏捺の視界を埋め尽くす。
そのまま唇同士が触れ合いそうになって、肩を震わせた。
しかし唇には触れず、音を立てて鼻先にキスをされる。

「っ!」

鼻先に触れた瞬間、杏捺は言葉を失った。
もどかしいような、焦らされるような、落ち着かない気持ち。
それに戸惑いながらも、夏也の口角が上がるのが見えた。

夏也は杏捺の後頭部に手を回すと、自身の方へ引き寄せた。
可愛がるように指先で優しく髪を撫でる。
杏捺は、震える指で夏也のシャツを軽く握った。

「逃げないんだな?」
「……逃げても、夏也先輩に捕まっちゃいますよね」
「ま、簡単には逃さねぇからな」

杏捺は返す言葉が見つからず、何も言えなくなる。
口を結んでいると、夏也の顔が少しだけ傾いた。

「ん」

短く促され、杏捺は意味を察して身体を強張らせる。
杏捺の緊張を感じ取っているだろうに、夏也は離れようとしない。
見つめ合う時間が長くなるにつれて、杏捺は耐えきれずに目を閉じる。
それが合図だと、二人とも知っていた。

静かに、触れるだけのキスをする。
確認するように、また軽く重なって、すぐに離れて。
繰り返される柔らかな口付けに翻弄されて、杏捺はシャツを掴む手に力が入ってしまう。

髪を撫でていた夏也の手は、するりと滑り降りて肩を掴む。
唇が触れるたび、杏捺の胸は切なく締め付けられた。
初めてではないのに、気持ちが追いつかない。
息をすることを忘れてしまうくらい。

熱を分け与えるようなキスは、ゆっくりと。
唇が離れても、ぬくもりだけが残っている気がした。

「……顔、真っ赤」
「言わないでください……」

唇の感触が消えないまま、杏捺は身体がじんわりと熱くなるのを感じていた。
眉を下げ、恥ずかしくて視線を逸らす。
杏捺に触れていた手が、名残惜しげに離れる。

「もう、暗くなるな」

夏也の声で、杏捺はハッと空を見上げた。
もう色を失いかけている夕焼け。
空は静かに暗さを深めて、これから訪れる季節を思わせる。
日が落ちるのは、もっと早くなる。
この時間が、ゆっくりと削られていく感覚がした。
もっと一緒に居たい、という言葉だけは、飲み込んだまま。

「そう、ですね……」

ふたりの間に風が割り込み、秋の匂いを連れてきた。
夏也は最後の仕上げのように、指先で彼女の前髪をさらりと整えた。