春の風がまだ少し冷たい。
いつもより騒々しいグラウンドの端で、杏捺は50メートル走の列に並んでいた。
唇を尖らせて、大きめのジャージの袖をまくる。
心の中のもやもやは、まだ晴れそうにない。
今朝はあまり正門を見る時間がなかったからだ。
体力測定の予定など、すっかり頭から抜けていたのが原因。
結局、体操服を取りに帰って時間がなくなってしまった。
自分のせいだと分かっているけど、気持ちが切り替えられない。
なんとなく、まとめていた髪を結び直す。
前のクラスの子がスタートラインに立つのをぼんやり眺めてから、なんとなく視線を横に流す。
少し離れた場所で、二年生がソフトボール投げをしていた。
白いラインの向こう、腕をしならせてボールを放る姿。
笑い声や、ボールが地面に落ちる鈍い音が風に混じって届く。
その中に、ひときわ目を引く人影があった。
「っ……!」
自然と背筋が伸びて、息を呑む。
心臓の鼓動が耳の奥で響いた気がした。
色のなかった景色に、急に鮮やかな色が流れ込んでくるみたいだった。
胸の奥が、きゅっと痛むように疼く。
そこにいたのは、廊下で一度だけ見かけた、あのときの先輩だった。
柔らかな光に包まれた髪も、綺麗な横顔も、記憶の中のまま。
見惚れているうちに、2年の先生の声が響いた。
「次、桐嶋!」
彼が一歩前に出る。ボールを握る指先、軽く跳ねる前髪、真剣な表情。
頭の中で何度も繰り返す名前は、音よりも感情に近かった。
「きりしま……」
杏捺が思わず声を零した瞬間、彼は腕をしならせてボールを放つ。
ボールは大きな弧を描き、遠くまで飛んでいった。
その飛距離を見て、わぁっと盛り上がる先輩たち。
歓声につられて、何人かの一年生がそちらを振り向く。
杏捺の視界の端にその様子がちらりと揺れた。
彼は二球目のボールを手にし、今度はさらに力強く投げた。
最初の記録を超え、彼は力強く拳を握りしめて振り下ろす。
その笑顔を見た瞬間、杏捺は目を見開いた。
心臓がどくんと強く跳ねて、体温がふっと上がる。
言葉にできない感情が膨らんでいくのを感じた。
クラスメイトと笑う様子を見つめながら、運動神経いいんだ、とぼんやりした頭で思う。
スポーツとか得意なんだろうな、と勝手な想像が静かに芽を出した。
「そっか……部活……」
同じ部活に入れば、声をかけるきっかけだって、自然にできる。
こんなふうに真剣な横顔を何度も見られるかもしれない。
想像しただけで、心臓が一拍早く跳ねた。
「ちょっと杏捺……次、杏捺の番だよ?」
先輩を見つめるのに夢中になっていた杏捺は、後ろの友達に声をかけられてハッとした。
列に並んではいたが、気づけば50メートル走の順番はもうすぐ。
前の生徒が走り出すのを確認して、杏捺はスタートラインに立った。
先生の声に合わせて前傾姿勢を取る。
走ることよりも、早く終わらせて先輩を見たいとばかり考えていた。
拳を握った瞬間、パン、と乾いた音が鳴る。
杏捺は地面を蹴って、風を切るように走り出した。
何人かの視線が背中にある気がして、力が入る。
途中、ちらりと視線を横に流してしまいそうになるのを堪えて、ただ前だけを見た。
ゴールラインを越えた瞬間、息を切らしながら振り返る。
そしてすぐに、輪の中で楽しそうに話す先輩を見つけた。
走った後だからか、やけに心臓がうるさい。
「杏捺、なんか走るの速くない?」
彼を見つめていると、走り終えた友達に声をかけられた。
言われて確認すると、確かに速い。
特に気にしていなかったが、自己記録を更新していた。
早く終わらせようと思った結果、いつもより走るのが早かったらしい。
「……こんなに速く走れたの、初めてかも」
心臓の音が、まだうるさかった。
走ったからだけじゃない。
遠くで聞こえる彼の笑い声に、胸が跳ねる。
こんな気持ちは、杏捺にとって初めてだった。
まだその感情に名前をつけることはできない。
視線が自然と彼を追ってしまう理由も、わからなかった。
そのまま杏捺は、2年生が移動を始めるまで、彼を見ていた。
◇
「ねえ……一生のお願いなんだけど」
杏捺は指を組みながら、少しだけ身を乗り出して、隣で座る友達に声をかける。
声のトーンは控えめだけれど、どこか切実で、期待を含んでいた。
「出たよ、杏捺の一生のお願い」
友達は苦笑いを浮かべながらも、ちゃんと顔をこちらに向けてくれる。
からかいの声とは裏腹に、その目には優しさが滲んでいた。
杏捺はその反応に、ほんの少しだけ安心する。
「お姉さんに聞いてほしいんだけど……」
友達の眉が、ほんの少しだけ動いた。
冗談半分の返事をしながらも、杏捺の真剣な表情に気づいたのだろう。
「前言ってた先輩の話、もしかして進展した!?」
その声に、杏捺の肩がぴくりと跳ねた。
図星を突かれた気まずさと、でも少し嬉しいような気持ちが入り混じる。
視線を逸らしながら、頬に熱がじわりと広がっていく。
「きりしま、って先輩……何部か聞いてもらえない?」
口にした瞬間、気持ちがふわりとくすぐったくなる。
まるで秘密を打ち明けるような気恥ずかしさがあった。
お願い、と絡ませた指へ無意識に唇をつけるように顔を下げる。
「……もちろんいいよ、ちょっと待って」
「ありがと」
友達は軽く頷くと、ポケットから携帯を取り出した。
画面を見つめながら、何気ない調子でメッセージを打ち始める。
指先が動くたびに、杏捺の心音は高鳴っていく。
その動作は慣れたもので、特別なことではないように見えるけれど、杏捺にとっては小さな奇跡のようだった。
数分後。返事がきた、と友達は携帯の画面をそのまま杏捺に向ける。
もしかして桐嶋夏也?から始まるメッセージが表示されていて、杏捺の視線はそこで止まった。
「……きりしまなつや……」
”桐嶋夏也”という文字を見た瞬間、それが少しずつ杏捺の中に刻まれていく。
こんな字なんだ、と忘れないように何度もその名前を目で追った。
胸に広がる感情を持て余しながらも、携帯から目を離す。
友達は画面を自分の方に向けて、スクロールしてみた。
「水泳部だって。けっこう有名らしいね、大会で記録出したとか」
「水泳部……」
うわ言のように呟いた声は、自分でも驚くほど小さかった。
まるでその言葉が、空気に溶けてしまうかのように。
「……良かったじゃん、気になってた人でしょ?」
友達の口角が、意味ありげに上がっていくのが視界の端に映った。
からかうような口調に、杏捺は思わず視線を逸らすと、頬がじんわりと熱くなる。
声が喉の奥で渦を巻いたが、結局頷くことしかできなかった。
それ以上何かを言えば、この気持ちの正体を決めつけてしまいそうで。
杏捺の中で彼の存在が、静かに輪郭を持ち始めていた。