夕暮れの校庭に乾いた風が吹き抜け、火照った肌を冷ましていく。
水泳部のランニングが終わったところで、砂の上には走り切った足音がまだ余韻のように残っていた。
先頭の夏也が胸元の笛をつまみ上げると、ピッと高い音が冷え始めた空へ吸い込まれていく。
杏捺は膝に手をつき、呼吸を整えながら夏也の横顔をそっと見つめていた。
誰より動き回っていたはずなのに、どこか涼しげな表情を崩さないのが不思議だった。
ついていこうと無理にペースを上げた部員たちは、皆ぐったりと肩を落としている。
「今日はここまで。水分補給忘れんなよ!」
部活終了の挨拶が響くと、部員たちの緊張がほどけ、あちこちで息をつく声が上がった。
「キッツ……! 夏也お前っ、体力どうなってんだよ……」
「んー? なんか言ったか?」
文句を言い合いながらも、部員たちは笑い混じりに更衣室へ向かっていく。
夏也は軽く声をかけながら、さりげなく顔色や歩き方を目で追った。
無理をしている様子がないか、ひとりずつ確かめている。
もうすっかり部長としての振る舞いが自然になっていた。
その光景を見るたび、杏捺の胸のあたりがじんわり温かくなった。
慕われている姿を見るのが、どうしようもなく好きだった。
人の気配がまばらになった頃、杏捺はそっと声をかける。
「部長……ちょっといいですか」
周囲を気にするような慎重さがあった。
相談ごとかと思ったが、その落ち着かない様子に、どうやらそれだけではなさそうだと気づく。
「おう、どうした」
普段は自分から何かを言い出すことの少ない杏捺。
そんな彼女が呼び止めてくると、自然と身構えてしまう。
何か大事な話なのかもしれない、そんな予感が胸をざわつかせた。
「今度の土曜日の部活、何時までですか? 日が暮れる時間までやります?」
ただの予定確認にしては、声音が妙に慎重だ。
夏也は眉をひそめ、心に小さな予感が波立つのを感じる。
「……なんかあったのか?」
部長としての顔をやめ、声を落として囁くように聞く。
その距離の近さに、杏捺の肩がわずかに揺れたのを夏也は見逃さなかった。
夏也の真剣な表情に、杏捺は一瞬だけ目をそらした。
息を整えてから、ようやく言葉を探す。
「あ、えっと……大したことじゃなくて、言いにくいんですけど」
その前置きに、夏也は小さく首をかしげる。
杏捺は申し訳なさそうに、小さく言った。
「紅葉が、キレイで……あの赤を撮りに、山まで行きたいんです」
予想外の答えに、夏也は思わず気の抜けた声が出た。
もっと深刻な話かと思っていた分、拍子抜けしてしまう。
「……何を言うかと思えば」
「ご、ごめんなさい……」
写真の話になると、杏捺の声が少しだけ弾む。
その変化は、彼女の心が動いた証だと夏也も気づいていた。
「ずっと、撮りたいと思ってたんですけど」
杏捺は頬を赤らめ、手を胸の前でぎゅっと握る。
何か大事な秘密を打ち明けているようにも見えた。
「天気とか時期的に、今週末が一番良くて……」
杏捺はふと山の方へ視線を向けた。
色づいた斜面を見つめる横顔が、夕陽に照らされてほんのり赤く染まる。
つられて夏也もそちらへ目をやる。
風が吹くたび、校庭の木々からも色づいた葉がひらりと舞い落ちていた。
夏也は杏捺へ視線を戻すと、彼女と目があった。
景色を映していた瞳が、かすかに揺れる。
言葉より先に、彼女の表情で熱量が伝わってくる。
「夕暮れ時がいいので、土曜の部活の帰りに間に合うかな……と」
「……日曜じゃダメなのか?」
思わぬ返しに、杏捺はきょとんと目を瞬かせる。
その無防備な反応に、夏也は笑みをこぼしそうになった。
「え? でも、日曜は……」
日曜はふたりで出かける約束がある。
その約束を思い出した瞬間、気持ちがふっとあたたかくなった。
「俺と出かけるのは、別にその日じゃなくてもいいだろ」
軽く言ったつもりだったが、杏捺は小さく息を吸い、首を横に振った。
そして唇を結んで視線を落とし、袖を指でつまむ。
杏捺にとっては、ただの予定のひとつではなく、ずっと楽しみにしていた時間だ。
だからこそ、簡単に動かしてしまうのが惜しくて、言葉が喉につかえる。
「嫌、です。夏也先輩との時間、ちゃんと欲しいので……」
その一言に、夏也の心臓がわずかに跳ねた。
普段は流されがちな彼女が、こうして自分の気持ちをはっきり示すのは珍しい。
だからこそ、不意打ちのようにまっすぐ向けられる言葉が刺さる。
その約束が、彼女の中でどれほど大切に扱われているのか。
自分との時間が特別だと、否応なく思い知らされる。
そして、その特別を守りたいと思ってしまう自分がいる。
「じゃあ……日曜に出かけた後、俺と行くか」
「えっ、でも……」
杏捺の声は迷いと期待が入り混じって揺れていた。
迷っているのは予定ではなく、距離感なのかもしれない。
そう感じた夏也は、離れそうな心を引き寄せるように言葉がこぼれた。
「断る理由ねぇだろ」
言い切った瞬間、夏也は自分の声が思ったよりも柔らかかったことに気づく。
強引な言葉で言ってみても、結局は彼女を安心させたいだけだった。
「……私が写真撮ってる間、つまんなくないですか?」
不安と遠慮が入り混じり、声が揺らぐ。
「別にかまわねぇよ。俺は杏捺を見とくから」
「それはそれで恥ずかしいんですけど……」
言いながら、杏捺は両手で口元を覆う。
困ったように眉を下げて、恥ずかしそうに。
ふたりのあいだに流れる空気が、さっきまでの部活の喧騒とはまるで別物に感じられた。
「それに、夕方まで撮るなら帰りは暗くなんだろ」
夕陽はすでに傾き、校庭の影がゆっくりと長く伸びていく。
風が止むと、ふたりのあいだに落ちる静けさがやけに鮮明で、言葉の温度だけが残った。
「日曜なら、俺が送ってく」
隣にいる未来を当然のように口にしてくれることが、嬉しくて、少しだけくすぐったい。
夏也の優しさに触れるたび、好きがまた静かに積もっていくのを感じた。
大切にされていることがまっすぐ伝わってきて、杏捺の頬がふわりと熱を帯びる。
その反応だけで、夏也には十分すぎる返事になっていた。
隣にいるだけで安心するこの感じが、最近ますます強くなっている。
守りたい、大事にしたい、そんな気持ちが深まっていく。
触れたくなるのを抑えながら、夏也は愛おしそうに目を細めた。
でも本当は、杏捺の嬉しそうな顔を見られたら、それで満足だった。
そんなことは、もちろん言えないけれど。