迷いを越えて繋いだ温度

朝の空気は、どこかひんやりしていた。
杏捺には、夏也を待つ時間がいつもより少し長く感じられた。
待っているだけなのに、そわそわして落ち着かない。
深く息を吸うと、透き通った青空と流れる薄雲が目に入った。

日差しはやわらかく、時折冷えた風が頬を撫でる。
どこからか金木犀の香りが流れてきて、杏捺はそっと呼吸を整えた。

「よ、待ったか?」

声に振り返ると、夏也が片手を上げて近づいてくる。
歩幅はゆっくりで、距離を詰める空気だけがどこか近い。
杏捺がまだ慣れていないことを気遣うような歩み。

「全然待ってないですよ」

杏捺が肩のカメラバッグを掛け直すと、夏也の視線がそこに落ちる。
バッグから彼女へ移るその目は、何かを決めかねているようだった。

「……夏也先輩?」

小さく呼びかけると、夏也は一瞬だけ視線を泳がせた。
それから覚悟を決めたように口を開く。

「手、繋ぎたいから……俺がそれ、持ってていいか?」

静かで、しかし確かな声だった。
どこか探るような響きと、言ったあとに息を呑む気配があった。

「え……」

杏捺は思わず夏也を見上げた。
驚きが先に来て、意味を理解したのはその後だった。
頬がじわりと熱を帯び、胸がきゅっと締めつけられる。

夏也は、杏捺の反応を待つように黙っていた。
急かす気配はないのに、どこか不安を隠しきれない沈黙。

数秒、杏捺は返事に迷った。
手を繋ぐだけなら、杏捺がバッグを持っていても問題はない。
むしろ重そうに見えたのかもしれないと考えると、気を遣わせた申し訳なさが浮かぶ。

彼の負担になりたくない。
そう思って、断ろうと口を開きかけたとき。
夏也が、ダメか? とでも言うように首をかしげた。
ほんの少し眉を下げて、困ったように。
その表情を見た瞬間、断る言葉が喉の奥でほどけていった。

「じゃあ……お願いします」
「ん」

夏也がすぐに両手を差し出し、そのまましっかり掴む。
受け取る手つきが丁寧で、それだけで十分に心強かった。

「ありがとうございます」

バッグを肩に掛けた夏也は、そのまま杏捺の頭に手を伸ばした。
優しく髪を撫でる指先に、杏捺は心地よくて目を閉じる。
その仕草には、彼が抱く大切さがそのまま滲んでいた。
指先が離れると同時に、今度は杏捺へ向けて手を差し出した。

「ほら」

杏捺はためらうことなく、その手を握った。
指がゆっくり絡め直されて、身体の内側からふわりと温かさが広がる。
冷えた風が頬を撫でても、繋いだ手の温もりがその冷たさを薄れさせた。

「行くか」

軽く引かれた手に合わせて杏捺が一歩近づくと、夏也が満足そうに微笑む。
歩き出すと、握った手が小さく揺れた。
それがなんだかおかしくて、杏捺はふっと笑う。
夏也もつられて目を細め、二人の間にあった緊張がほどけていく。

並んで歩く空気が、今日の始まりをそっと知らせていた。

 ◇

「……あの、やっぱりちょっと恥ずかしいんですけど」
「なんだよ?」

杏捺はカメラからそっと顔を上げ、夏也を見た。
さっきまで響いていたシャッター音が止むと、秋の夕暮れの静けさが降りてくる。

斜面に生えた紅葉の木の下で、ふたりは並んで立っていた。
透ける赤い葉のあいだから夕日が差し込み、肩に淡い光を落としていた。

「そんなにじっと見られてると、なんか……」

俯いた杏捺の声は、風に揺れた葉の音に紛れるほど小さい。
頬が赤いのは夕日のせいだけではなく、言葉にできない熱のせいだった。

夏也の視線は責めるでも急かすでもなく、ただ温かい。
けれど、その温度がかえって落ち着かなくさせる。
触れられているわけでもないのに、どこか距離の近さを意識してしまう。

「見られてると集中できないのか?」

夏也が体勢を変えると、足元の落ち葉がガサッと音を立てた。
その小さな音にさえ、杏捺の身体がわずかに跳ねる。

「そうじゃないんですけど……」

杏捺は恥ずかしそうに夏也を見上げた。
視線がぶつかった瞬間、頬の赤みがさらに増す。

「……俺だから?」
「言わせる気ですか?」

それを聞いて、夏也は口元だけで笑った。
杏捺は見られること自体が嫌なのではない。
好きな人に見られていると思うだけで、心が落ち着かなくなる。
写真を撮るときの高鳴りとは違う、もっと近い場所で生まれる熱だった。

「夏也先輩て、ほんと意地悪」

そう言って笑うと、杏捺は再び紅葉と夕焼けへ視線を戻す。
景色をなぞるように、周囲の色が瞳へ溶け込んでいく。

杏捺が何かを撮りたいと思うとき、よくこんな目をしていた。
光を吸い込むように瞳が揺れ、紅葉よりも鮮やかに見える。
その横顔は、さっきまで隣で笑っていた雰囲気とは少し違って見えた。
どこか大人びていて、夏也は思わず息を呑む。

透けた葉の赤が、杏捺にも薄く映り込んでいた。
その色が、夏也にはどうしようもなく綺麗に見えた。

しばらく撮影を続けてから、杏捺はそっとカメラの電源を切る。
レンズキャップを付ける動きには、撮り終えた余韻が漂う。

「もういいのか?」
「はい、満足です」

そう言って杏捺が嬉しそうに微笑む。
夏也がカメラバッグを開くと、杏捺は首から外したストラップを整え、大事そうにカメラを収めた。

「ありがとうございました」

小さく頭を下げて、バッグを受け取ろうと手を差し出した瞬間。
夏也は渡すはずのバッグを、なぜかまた自身の肩に掛けた。

「え……?」

両手を差し出したまま戸惑う杏捺を見て、夏也はそのまま彼女の背へ腕を回して抱き寄せた。
驚いて、杏捺は一瞬だけ呼吸が止まった。
夏也の温度が、服越しでもはっきり伝わってくる。

「な、夏也先輩?」
「……よし、帰るか」

何事もなかったようにぬくもりが離れ、流れで手を繋がれる。
杏捺はそのまま引かれるように歩き出した。
ひらりと落ちてきた枯葉が、ふたりの影の上へ静かに乗る。
握られた手は温かく、柔らかく包まれていた。

「荷物ずっと持たせてるの、申し訳ないんですけど……」

夏也はその言葉を無視して、前を見たまま言う。

「足元、気をつけろよ。枯葉の下に木の根があるから」
「えっ、わ、ぁ!」

言ったそばから杏捺が躓きかけ、夏也が手を強く引いて支えた。
その動きには迷いがなく、まるで最初から受け止めるつもりだったかのようだ。

「だから言っただろ……」
「すみません……ありがとうございます」

杏捺は思わず、繋いでいる手をぎゅっと握り返し、もう片方の手で夏也の腕にしがみついていた。
自分でも驚くほど自然に身体が寄ってしまう。
夏也が横目でそれを見て、少しだけ口元を緩める。

「この手は、俺に握っててほしいみたいだな」

その言葉に、杏捺ははっとしてしがみついていた方の手を離した。
視線を落とした先で、ふたりの影がひとつになっていた。
夏也もそれに気づいて、指と指を絡ませるように握り直した。

「危なっかしいから、バッグは俺が持っとく」

そう言って、歩幅を少しだけ合わせながら進み始める。
落ち葉を踏む音がだんだん重なって、揃ってくる。
風に揺れた紅葉が、ふたりの足元をかすめた。

「……ちゃんと掴んでろ」

その声は、いつもの調子と少し違って聞こえた。
杏捺は胸がじんわりと熱くなるのを感じながら、小さく返事をした。

ふたりの影が伸びて、落ち葉の道を揺らしながら進んでいく。
手の温度は、ずっとそこにあった。