息に紛れる

吹く風が、刺すように冷たい。
白い息が揺れ、耳の先がじんじんと痛む。

「ラスト一本!」

夏也の声が冬空に響く。

尚のホイッスルを合図に、4人ずつで駆け出す。
音と同時に、いかに身体をすぐ動かせるか。
今日の最後のメニューは、瞬発力を重点に置いた練習だった。

かじかむ指先を握りしめながら、杏捺は前を走る夏也を見つめた。
いつもなら淡々とこなすはずなのに、今日はどこか動きが荒い。
呼吸が乱れ、集中が途切れているようで、目を離せなかった。

「……もう、無理……」
「疲れた……」

走り終えた部員たちの足音が乾いた地面に散っていく。
杏捺も息を整えて顔を上げた瞬間、夏也の視線に吸い寄せられた。
まっすぐな瞳に、緊張で一瞬息が止まる。

どこか迷っているような表情をした夏也が、ぎこちなく右手で左耳に触れた。
ふたりだけが知っている、会いたいときの合図。

その仕草を見た瞬間、杏捺の心臓が跳ねた。
今日の彼の様子と合図が重なり、不安が胸に広がる。
冷たい風が頬をかすめ、そのざわつきを静かに肯定するようだった。

 ◇

部活が終わる頃、空は薄い灰色に沈んでいた。
吐く息が淡くほどけ、太陽の光はもうほとんど力を失っていた。

杏捺は夏也が示した合図の意味を胸に抱えたまま、いつもの場所へ向かう。
脇道を抜け、空き家の裏の静かな路地で足を止めた。

杏捺はため息をついて、部活中の夏也の様子を思い出しながら俯く。
制服の裾を揺らす風を見ていると、砂を踏む音がした。
振り向くと、影に沈んだ夏也の目だけがこちらを捉えているように見えた。

「……杏捺

名前を呼ばれたと思った次の瞬間、強い腕に引き寄せられていた。

「えっ……あの……?」

驚きが声になる直前、夏也の腕が杏捺を包み込む。
胸元に押し寄せる体温に、思考が一瞬止まった。

「悪い……もうちょい、このまま……」

低く落ちた声は、どこか頼るような響きで、いつもの彼とは違っていた。
夏也は目を閉じ、杏捺の匂いを吸い込むように深く息をした。
杏捺の首の付け根あたりに、夏也の頰が触れる。
吐息が肩越しに伝わってきて、体温が妙に生々しい。
理由も告げず抱きしめられ、杏捺は戸惑いながらもそっと首元に腕を回した。

部活中に覚えた違和感が、ようやく少し形を帯びていく。
尚先輩のこと? 弟さんとの喧嘩? それとも部長としての重圧?
いくつもの可能性が頭をよぎるだけで、どれも言葉にはできなかった。

「夏也先輩……?」

呼びかけても、夏也は何も言わない。
ただ、抱きしめる力だけがわずかに強くなる。
杏捺は迷った末に、そっと夏也の髪に指を滑らせた。
撫でるような、触れるだけのような、弱い動き。

その瞬間、夏也の肩が張りつめていた糸がほどけるように、ふっと緩んだ。

夏也が苦しそうに見えるのは、杏捺には関係のないことかもしれない。
それでも、こうして縋る先に選んでくれたことが嬉しかった。
不謹慎だと思いながらも、その事実で胸がじんわり温かくなる。

やがて、夏也が小さく息を吐いた。

「……ごめん」
「謝らないで……ください」

強く抱き寄せていた腕の力がほどけるように弱まる。
ふたりの間にわずかな距離が戻り、夏也の顔が視界に入った。
その表情を見た瞬間、視界がにじみ、頬を伝うものがあった。
自分でも驚くほど勝手に涙がこぼれ、杏捺は慌てて目元を拭おうとする。
けれど、その手より先に、夏也の指がそっと頬に触れた。

「なんで、杏捺が泣いてんだよ……」

困ったような、でもどこか苦しそうな声。
それを聞いて、杏捺の涙は余計に止まらなくなる。

「だ、って……」

言葉にならない。
喉の奥が詰まった気がして、息が震えてしまう。
夏也が感じている苦しみや、何もできない自分への悔しさ。
頼りなくて、謝らせてしまった罪悪感。
いろんなことが頭を巡って、溢れ出してしまった。

夏也は、杏捺の頬を親指でゆっくり拭いながら視線を落とした。

「……心配かけたな。悪い」

ぬくもりが離れたところに、ひんやりとした空気が一気に戻ってきた。
沈黙の中で、夏也はぽつりとこぼした。

「最近……全部空回りしてる気がして」

言葉を絞り出すような声だった。
沈んでいた重い声が、幾分かマシになった気がした。

「情けねぇよな。杏捺にかっこ悪いとこなんか見せたくねぇのに……」
「……情けなくなんて、思いません」

杏捺は胸の熱を抱えたまま、首を振る。
夏也が、息を呑んだように言葉を失った。
涙で滲んだ視界のまま、夏也の手をそっと握った。
長い睫毛が、かすかに震えている。

「夏也先輩の……かっこ悪いとこも、弱いとこも……全部、見たいです」

吐き出すように杏捺が声を上げると、息が白く揺れた。
夏也は、何かを確かめるようにその手を握り返す。

「……お前には、弱いとこ見せてもいいか」

声は震えていて、でもどこか救われたように聞こえた。
杏捺は頰に涙の跡を残したまま、静かに頷く。

夏也がバッグからタオルを取り出すと、彼女の頰を優しく拭った。
その仕草は、さっきより少しだけ落ち着いていた。
優しい表情で頭を撫でたり、指先で前髪に触れたり。

「ありがとな。こういうとき、杏捺がいてくれると助かる」

その言葉は、杏捺のことを特別に思っているようだった。
杏捺は夏也に擦り寄り、そっと瞼を閉じる。
嬉しい、なんて言葉では足りない。

夏也は何も言わなかった。
ただ、杏捺の呼吸が落ち着くまで、静かに抱きしめ続けていた。
その腕の力は強いようで弱く、頼るようで、守るようで。
どちらとも言えない曖昧さが、かえって安心をくれた。

「……なぁ、杏捺

名前を呼ぶ声は、今日一番、柔らかくて甘い。

杏捺は全部、俺に見せられるか?」

杏捺は瞬きをし、言葉の意味を探すように夏也を見上げた。
静かな空は、濃い藍色の中に星の光がちらつきはじめていた。

「怖いとか、弱いとことか、恥ずかしいとか……そういうの、全部」

言葉を選ぶように、ひとつずつ、けれど確かな声で続ける。
まっすぐに向ける瞳と、真剣な言い方。
夏也は杏捺の髪を耳にかけて、頰に触れる。
冷たい空気の中で、やけに熱があった。

「夏也先輩になら、いいですけど……」

杏捺は小さく首を傾げ、言葉の意味をそのまま受け取ったように肯定する。
素直すぎる返事に、夏也の指先がわずかに止まる。

「意味、わかってないだろ?」
「……へ?」

戸惑う杏捺を見て、夏也はふっと口の端を緩めた。
けれどそれは、どこか困ったような表情だった。

「ま、今はそれでいいか」

言いながら、夏也はタオルをバッグにしまう。
少し離れた隙に、ふたりの間を埋めていた温度へ冷えた風が入り込む。
わずかに戸惑いながらも、杏捺が寒さに震えた瞬間。

「もっと、先もあるんだぞ」

夏也が吐く息に紛れて消えていくような、低い声で小さく呟いた。
だが杏捺には届かず、上ずった声で聞き返す。

「え? 今なんて……」

問いかけようとした杏捺の唇に、夏也はそっと指を当てた。
それ以上なにも言わせないように、静かに制する仕草。
杏捺は反射的に身をすくめ、言葉を飲み込んだ。

手を顎に添えられ、顔が近づくと杏捺はぎゅっと目を瞑った。
柔らかい感触が唇に一度軽く押しつけられ、静かに離れる。
触れた場所に残る熱と、急激に上がる体温。

「寒いし、そろそろ帰るか」
「……はい」

夏也が杏捺の手を引いて、二人は並んで歩き出した。
帰り道を共にするのはよくあることだったが、今日は漂う空気が違う気がした。
言葉を交わすことなく、ただ隣にいるだけ。
足音が揃うたび、この小さな沈黙が気になってしまう。
杏捺は、横顔の表情を盗み見ようかと視線を泳がせた。
でも目が合ってしまったら、どんな顔をすればいいかわからなくて。
結局、俯くほかなかった。