冬の夕方は思ったより早く夜を連れてくる。
待ち合わせの駅は、地元よりずっと騒がしい。
人の流れが途切れず、知らない声が次々と耳を通り過ぎていく。
その雑踏の中で、背伸びするように周囲を見渡す姿がすぐに見つかった。
夏也だと気づいて、さっきまで落ち着いていた鼓動が騒ぎ出す。
杏捺はコートの裾を揺らしながら、控えめな小走りで夏也のもとへ向かった。
駆け寄る足音に気づいて、夏也はすぐにこちらへ視線を向ける。
「悪い、待たせた」
不安と心配が混じったような声。
息が白く揺れて、杏捺の表情がわずかにほころぶ。
「あ、いえ……今来たとこですから」
落ち着かない気持ちを隠すように指先でマフラーを摘み、顔を埋める。
その仕草と、杏捺の鼻が少し赤いのを見て、夏也はすぐに察した。
本当は、もっと前から着いていたんだろう。
気を使ってそう言うところも、彼女らしい。
「行くぞ。じっとしてたら寒いだろ?」
歩き出しながら、自然と歩幅を合わせてくれる。
進んでいくにつれて、どんどん灯りが増えていった。
角を曲がった瞬間、視界がぱっと開けて、空気が変わる。
一面、光の海。
建物の壁沿いに並んだライトが波のように続き、ゆるやかに色を変えていく。
木々の枝先は無数の粒が雪のように灯り、風が触れるたびに揺れた。
杏捺が気を取られているのに気づいて、夏也は歩く速度を落とす。
「……きれい……」
小さく漏れた声に、夏也は視線を向ける。
杏捺の瞳は、夜をすくい取ったみたいに深く澄んでいた。
色が触れるたびに揺らいで、そこに星空を描いていく。
ひとつ残らず、景色を吸い込もうとしているようだった。
「……綺麗だな」
夏也は目を細め、自然と口元がゆるむ。
イルミネーションよりも杏捺の横顔を見つめていた。
「……写真、撮るんだろ?」
促すように言っても、杏捺の視線は光に吸い寄せられたまま。
「はい……! 光が、すごく……繊細で……」
言葉が途切れ、杏捺はふっと動きを止めた。
瞳に色の粒が吸い込まれていくようで、瞬くたびに表情が変わる。
ひとつひとつを心にしまうように視線が揺れた。
イルミネーションの反射で頬が淡く色づく。
目をキラキラさせたまま、まるで時間から切り離されたみたいに動かない。
夏也が周囲を見回して、立ち止まれそうかと歩幅を調整している。
それなのに杏捺は、人の流れが横を抜けても、まだ光から目を離せなかった。
「……おい」
夏也の声が、すぐそばで落ちた。
杏捺ははっとして、慌てて夏也の方へ顔を向ける。
「人多いから、離れんなよ」
叱るというより、守るような低く抑えた響き。
眉間にわずかに寄った皺が、彼の真剣さをそのまま映していた。
「すみません……」
小さく答えた瞬間、手首をつかまれた。
驚きで息が止まる。
「捕まっとけ」
杏捺の手が夏也の腕へ導かれ、意識が引き寄せられる。
杏捺は、遠慮がちに指を添えた。
夏也の表情がやわらぐのを見て、胸が締めつけられる。
嬉しさがふわりと広がって、ゆっくり身体を寄せた。
イルミネーションの中心に近づくと、光の密度は濃くなった。
木々は枝の先まで灯され、夜空に浮かんでいるように見える。
ふたりは人の流れを避けるように端に寄った。
「……すげーな」
思わずこぼれた夏也の声に、杏捺はその横顔を盗み見る。
素直に感嘆していることに少しほっとした。
杏捺はカメラを取り出すが、指先が思うように動かない。
冬の空気が冷たすぎて、かじかんでしまっていた。
温めようと手袋を外して、右手を頬につける。
「どうした?」
「す、すみません……手が……」
言い終わる前に、夏也が距離を詰めた。
イルミネーションの光がふたりの影をひとつに重ねる。
冷えた指先を見抜いたように視線が落ち、夏也は手袋を外して杏捺の指先に触れた。
「……つめた」
思っていたより冷たい指。
こんなに冷えるまで我慢していたのかと思うと、放っておけなかった。
「な、夏也先輩っ、あのっ」
「動くなって。しばらくこうしてたら、あったかくなるだろ」
温かい手のひらが、丁寧に指先を包む。
体温を分け与えるように、ぬくもりが染み込んでいく。
杏捺は戸惑いながらも、素直に優しさを受け入れた。
「あ……ありがとうございます……」
申し訳なさそうに、かすれた声が零れ落ちた。
夏也の手は大きい。
比べて自分の手が小さくて華奢に見える。
明らかに自分より男らしい骨格をしていて、手の平も厚い。
それがなんだか愛しかった。
夏也の温度が、冷え切っていた指先をゆっくりと溶かしていく。
「あったかいです……」
「……手袋してんのに、こんな冷えてんのかよ」
杏捺が何か言うより早く、夏也がさらに近づいた。
包んだ手を自分の方へ引き寄せ、優しく握り直す。
そして唇が触れそうな距離で、はぁ、と熱い息を吹きかけた。
「っ……」
白い息が指に触れて、杏捺の身体がびくっと震えた。
冷たさと温かさが混ざり合い、すぐに空気へ溶けていく。
自分でも分かるほど、頬が色づいていくのが恥ずかしい。
隠しようがなくて、それでも目を逸らせなかった。
触れている場所からじんわりと熱が広がっていくのを感じた。
ふと夏也が視線を上げて、熱を宿した瞳と目が合った。
確かめるみたいに、まっすぐ杏捺の方を見ている。
そうやって見惚れている間に、夏也の温度に染まっていく。
「……もう、大丈夫か?」
いつもより甘い声で言われて、頭の中がふわふわしてしまう。
夏也が手を離しても、まだそこだけ熱を持ったまま。
冷える前に、杏捺はその手を自分の中に刻むようにじっと見つめる。
「ありがとうございます。写真……ちゃんと撮れそうです」
「おう」
シャッターを切る音が何度か続いて、カメラから顔を上げる。
杏捺の瞳に新しい光が映り、口元がふんわりゆるむ。
夏也はその様子を、黙って横で見守っていた。
何度もファインダーを覗き込んで、ピントを合わせ、また構え直して。
写真を撮ることに夢中な杏捺は、真剣な表情でレンズ越しに世界を見ていた。
少しだけ胸がざわついて、ポケットに手を入れて目を逸らす。
隣でもぞもぞと動くのにつられて、杏捺はカメラを覗いたまま夏也を見た。
夏也の後ろでイルミネーションがぼやけて、輪郭をやさしく縁取っていた。
いつもの芯の強さが少しほどけて、無防備でやわらかい表情。
まつ毛が伏せたときの影さえも自然で美しく、完璧に思えた。
カシャッという小さな音が、冷えた空気に溶け込む。
ほとんど無意識の行動だった。
「……俺まで撮ったな?」
夏也の視線が、杏捺の手元をちらと掠めた。
含みを帯びた声が落ちて、ファインダー越しに目が合う。
そして意地悪そうに、口元にわずかな笑みが浮かんだ。
杏捺はびくっと肩を揺らし、慌ててカメラから顔を上げて夏也を見る。
「あ、ごめんなさい……私……」
思わず撮ってしまったことに謝罪し、言葉を詰まらせる。
弁明しようとしたが、胸の中には表現できない想いが詰まっていて。
言えない代わりにカメラを抱きしめた。
「無言で撮るの、前もやってたよな。……クセなのか?」
「すみません。なんか手が動いちゃって」
素直にそう言う杏捺に、今度は夏也が小さく肩を揺らす。
「無意識かよ……まぁ、別にいいけど」
そっけなく言いながらも、横を向いた夏也の耳の先がほんのり赤い。
さっき撮ったときは、こんな色じゃなかった気がする。
杏捺はカメラの液晶に写真を表示した。
撮ったばかりの一枚には、灯りに照らされた夏也の横顔が映っている。
穏やかで、優しくて、どこか無防備な表情。
きっと自分にしか撮れない一枚だと杏捺は思った。
写真を撮ることで、ほんの少しだけ自分のものになったような気がして。
嬉しさと照れが混ざって、杏捺はまたカメラを抱きしめる。
ざわめきが一層大きくなり、顔を上げた。
光が強くなり、目の前に広がる景色はどこまでも続いているようだった。
細かな灯りが散り、色がゆっくりと滲んで、空気ごと染めていく。
風が触れるたび、光の粒が揺れて、夜が静かに息をしている。
「……来て良かったな」
隣から、そっと肩に触れるほどの距離感が伝わってくる。
景色を見たまま落ちた夏也の声に、杏捺の呼吸がふっと揺れた。
こんなに綺麗に見えるのは、きっと隣に夏也がいるからだ。
景色そのものより、彼と一緒に見ているという事実が、世界を何倍も鮮やかにしている。
そう思ったら、心臓がうるさく跳ねた。
寒さがほんの少しだけやわらいだ気がした。