「……寒いなぁ」
小さく漏れた杏捺の声は、白い息となって冬のグラウンドに溶けていった。
その行方を追うように、もやが残るあたりを見た。
冷たい風に、胸元に抱えた記録用紙のバインダーを思わずぎゅっと抱きしめる。
「杏捺、俺のタイムは?」
タオルを肩にかけた航太が、軽い足取りで近づいてくる。
杏捺は慌てて視線を戻し、バインダーを差し出した。
「あ、えっと……はい」
「サンキュ」
航太は短く礼を言いながら受け取ると、パラパラと記録用紙をめくる。
落ちたか、など独り言をこぼしながら、ふと顔を上げた。
航太と目が合って、杏捺は2、3度瞬きをした。
「そういえば杏捺、最近カメラ持ってこないんだな?」
「フォームの確認用なので……泳げない間は封印ですね」
杏捺が苦笑いしてそう言うと、当たり障りのない相槌が返ってくる。
航太が脈絡のない話をするのはいつも通りで、杏捺も特に変わらず話した。
「じゃあもう春までは撮らないのか?」
「部活では、まあ……休みの日とか、普通に風景を撮ったりもしますよ」
航太がそっか、と返しながら、杏捺の向こう側を見た。
その視線につられるように振り返る。
ほんの一瞬。
夏也と目が合った気がした。
けれど彼はすぐに視線を逸らす。
……こっちを見ていた?
そう思いつつも、気のせいかもしれないと首を傾げた。
「じゃあ次、男子からダッシュ始めるよー!」
尚の声が響き、部員たちが再び走り出した。
冷えた空気を切るように、笛の音がグラウンドに規則的なリズムを刻む。
杏捺が記録を取っていると、走り終えた航太が肩で息をしながら言う。
「今日のメニュー、きついな……」
「航太先輩、この間も同じこと言ってましたよ」
「マジかよ……けほ、っ」
突然咳き込んだ航太に、杏捺は慌ててドリンクを持ってくる。
「ゆっくり飲んでください」
「っ、悪い」
杏捺がそう返したとき、また、あの視線を感じた。
振り向くと、一瞬だけ夏也と視線が交わる。
今度は確信があった。
夏也が、練習の合間にこちらを見ている。
怒っているわけじゃなく、ただ静かに。
理由のわからないざわつきが胸を満たす。
今までずっと、杏捺が夏也を目で追って、目が合うことばかりだった。
けれど今日はその逆。
杏捺が気づくより先に、夏也がこちらを見ている。
嫌な感じはしないが、どうにもむず痒い。
◇
部活終了の笛が鳴り、全員が整列して挨拶をする。
空気が一気に緩み、部員たちが思い思いに散っていく。
「杏捺、今日ありがとな!」
「あ、いえ……全然」
杏捺が顔の前で軽く手を振ると、航太がそこへ勢いよくハイタッチしてきた。
そんなことをされるとは思っていなかった杏捺は一瞬驚いて固まる。
だが、航太は何事もなかったように手を振りながら帰っていった。
おつかれさまです、と杏捺は返し、航太を見送る。
その瞬間、背中に視線が刺さるような感覚が走った。
振り返ると、夏也が尚に声をかけながら部室へ入っていくところだった。
尚が帰る様子を見るに、どうやら夏也だけが残るらしい。
つまり、彼がひとりでいつもの片付けをするということ。
「杏捺ー、帰ろ?」
いつものメンバーに声をかけられたが、杏捺は一瞬迷い視線を泳がせた。
「ごめん、ちょっと……片付け思い出しちゃって。先に帰ってて」
そう言いながら、身体は自然と部室のほうへ向かっていた。
今日の夏也は、明らかにいつもと違う。
その理由を、確かめたかった。
部室の前に立って、緊張で肩に力が入りつつも、杏捺は扉を開ける。
夏也は机に向かい、練習メニューの紙に何かを書き込んでいた。
その横顔は落ち着いているのに、どこか考え込んでいるようにも見える。
杏捺は扉を閉め、そっと声をかけた。
「……おつかれさまです」
抑えたつもりだったのに、少し声が震えてしまった。
夏也が顔を上げ、視線がぶつかる。
その一瞬だけで、胸がきゅっと縮まる。
「おう。おつかれ」
それだけの言葉なのに、いつもより少し低く響いて聞こえた。
机の上には、部員ごとのファイルが積まれている。
杏捺はそれを胸に抱え、今日の記録を確認しながら棚へ戻し始めた。
紙の端が指に触れるたび、さっきまでのことが頭をよぎる。
外より静かな部室で、ふたりきりだと、どうにも意識してしまう。
部室の空気は冷たいのに、背中だけがじんわり熱い。
先輩たちのファイルを上の棚へ片付け始めると、椅子を引く音がした。
続いてゆっくりと足音が近づいてくるが、杏捺は振り返れなかった。
背後に夏也の気配がして、影が重なる。
「……ちょっといいか」
耳のすぐ後ろで落ちた声に、杏捺の動きが止まる。
振り向く前に、棚へ伸ばしていた杏捺の手の横に、夏也の手が置かれた。
棚と夏也に挟まれて、逃げ場がなくなる。
「夏也、先輩……?」
「いいから。そのまま」
遮るように囁かれ、杏捺の指先が震えた。
持っていたファイルがかすかに擦れる音を立てる。
息が触れて、心臓の音だけがやけに大きく響いた。
対照的に、ひどく落ち着いている夏也。
その静けさが少し怖くて、でも嫌だとは思わなかった。
「……今日さ」
夏也の声が掠れたように落ちて、杏捺は反射的に背筋を伸ばした。
「ずっと気になってた」
思った通り、夏也が口にしたのは、杏捺も気にしていたあの視線のこと。
どうして、という疑問には、案外すぐに答えが降ってきた。
「お前が、誰とでも普通に話すから……」
怒っているわけでも、責めているわけでもない。
ただ、抑えきれずにこぼれた本音のように聞こえた。
夏也の手が杏捺の手にそっと触れて、じんわり熱が広がる。
「……嫌だった。なんか」
いじけたような、でも素直な声。
でもいつもより、息が少しだけ浅い気がした。
その中に、言葉にならない温度が詰まっているように感じる。
杏捺にとって夏也は、強くて頼れる、みんなの中心にいる憧れの存在だった。
その彼が、こんなふうに弱さも嫉妬も見せてくれる。
きっと自分だけに向けられたもの。
どうしようもなく嬉しくて、自分の顔が熱くなるのがわかった。
「……そういうの、あるんですね……夏也先輩にも」
自分でも驚くくらい、声が小さくなる。
夏也はすぐには答えず、静かに息を吐いた。
「……ガキっぽくて悪かったな」
その言い方が、少しだけ拗ねていて、少しだけ照れていて。
独占欲が出た、と以前言っていたのを思い出す。
これもきっとそういうことなんだろう。
「そういうとこも好きですけど……」
「……あんまかわいいこと言うなよ」
夏也が少しだけ顔を寄せ、杏捺の耳元で低く囁いた。
杏捺はびくりと肩を震わせ、思わず息を呑んだ。
耳の奥まで熱が広がって、頭がうまく回らない。
夏也が触れているだけで、身体の芯がふわりと浮くような感覚になる。
「……顔、見なくても真っ赤なのわかるな」
「も、もう……からかわないでください」
声が震えてしまうけど、逃げる気はなかった。
「じゃあ……見せてみろよ」
その言葉に、杏捺の心臓が跳ねた。
次の瞬間、そのまま軽く手を引かれた。
強引だけど、乱暴じゃない。
「きゃっ……」
身体が自然と回されて、夏也のほうへ向かされる。
熱い瞳と目が合って、逸らせない。
さっきまで背中越しに感じていた温度が、真正面からぶつかってくる。
距離が近い。
息が触れる。
視線が絡む。
「……ほら。やっぱ真っ赤」
意地悪な、でも、どこか優しい声。
杏捺は恥ずかしくて顔を覆いたくなるのに、夏也の手がそうさせてくれなかった。
「……だって……」
「もうちょい、わがまま言っていいか?」
夏也の声は、さっきよりもずっと静かで、ずっと近かった。
その距離に心音が大きくなるのを感じながら、杏捺は小さく頷いた。
「少しだけ、杏捺が俺のだって……確かめさせてくれ」
その瞬間、夏也の額がそっと触れた。
触れた額から体温が伝わって、安心と緊張を同時に連れてくる。
夏也の存在を確かめるように、杏捺はそっと目を閉じた。
「こういうのも、他の奴にやらせんなよ」
「……はい。えっと……その……夏也先輩の、なので」
杏捺は目を閉じたまま、そっと微笑んだ。
満たされたように胸がじんわりと温かくなる。
この距離を、許されているのが嬉しい。
夏也の手が、杏捺の指に絡む。
杏捺もそれに応えて、そっと握り返す。
離したくない、と伝えるように。
触れた温度だけが、ふたりのあいだにそっと残っていた。