思い返す余白

昼休みは、教室のざわめきが明るく満ちていた。
窓から差し込む冬の光は弱く、机の上に淡い影を落としている。
暖房に近い机を引き寄せ、杏捺はみんなが集まってくるのを待った。
すると、すぐにいつもの3人が弁当箱を抱えてやってくる。
4つの机がカチリと合わさると、そこだけ小さな島みたいに見えた。
みんなが揃って座ると、自然と手元の弁当袋に手が伸びた。

「じゃあ……」

綺尋がみんなの顔を見回すと、自然と手を止めて視線を合わせた。
手をぱちん、と叩く音がして、それを合図に声が重なる。

「いただきます」

杏捺は箸をそっと卵焼きへ伸ばす。
ひと口かじると、やわらかな食感が舌に広がった。
噛むたびに、じんわりとした旨みとほのかな香りがほどけていく。

「……今日の、なんかいい感じかも」

杏捺は何気なく、小さく呟いた。
けれどそれが、隣に座っていた香唯に聞こえていたらしい。

「ほんと、杏捺の卵焼き美味しそう!」
「みんなもひとつ食べる?」

杏捺はお弁当の蓋に小さく切った卵焼きを置いた。
それを机の中央へ差し出すと、3人はお礼を言いながら箸で取った。

「んーっ! ふわふわ!」

香唯が両手で頬を覆い、目を丸くしながらじっくりと味わった。
他の2人もそれぞれに感嘆の声をあげる。
今朝、少し早起きをして作った甲斐があった、と杏捺は心の中で思った。
嬉しくて微笑んでいると、ねえ、と噂好きの美衣葉が話し始めた。

「鳥宮くんとマプちゃん、付き合ってるらしいよ」

やたらと楽しそうに箸を回しながら、口角を上げる。
唐突に始まった恋バナに、杏捺は思わず瞬きをした。
こういう話題は嫌いじゃないけれど、聞き役でいるほうが落ち着く。

「らしいね。毎日ふたりでお弁当食べてるし」
「いいなあ……私も彼氏ほしー」

綺尋はもう知っているとばかりに返して、ご飯を口に運ぶ。
それに対して、牛乳のストローを咥えた香唯がいじけたように言う。
杏捺は小さく笑いながら、黙って聞いていた。

「危ないときにサッと助けてくれるとか……1回でいいからされてみたいんだよね」
「ドラマの見過ぎ」

美衣葉が笑いながら突っ込むと、香唯は頬を膨らませる。
杏捺はその会話を聞きながら、ふと夏也のことを思い出した。

パネルにぶつかりそうな自分の手を、夏也が無言で引き寄せた瞬間。
守るみたいに抱きしめられた、あの温度。
思い出すと頬がじんわり熱くなる。
杏捺は誤魔化すように、また箸を動かした。

「そういえば杏捺ってさ、この前告白されてたよね? あれどうしたの?」

急に美衣葉に言われて、口の中のものをごくんと飲んだ。
3人の箸が止まる。
視線が一斉に向けられて、杏捺は少しだけ肩をすくめた。

「あー……断ったよ」

杏捺は箸先でご飯をつつきながら、さらりと言ったつもりだった。
短い返事だったのに、その場の空気がわずかに静まる。
そのとき、綺尋がぽつりと言った。

「剣道部の吹石でしょ?」

美衣葉はまだしも、綺尋にまで噂が広がっているのが意外だった。
ただひとり、なにも知らないらしい香唯が、口元に手を当てた。

「まじ? 吹石って杏捺のこと好きだったんだ」
「なに、狙ってたの?」
「ち、違うよー! ただ意外ってだけ!」

綺尋が冗談っぽく言って、香唯が慌てて否定する。
軽快なやりとりに杏捺は微笑みながら、手元の弁当箱に視線を落とした。

「まぁ確かに、静かで落ち着いてるイメージだし、意外だよね」
杏捺は、そういう人タイプじゃないんだ?」
「タイプじゃないっていうか……えっと……」

杏捺は口調を抑えて、言葉を探すように視線を揺らした。
タイプじゃない、と言い切るのは違う気がした。
杏捺が夏也と付き合っていることは、この3人にも内緒にしている。
だから、まさか彼氏がいるなんて言えるわけもなくて。

「じゃあさ、杏捺はどういう人がタイプなの?」
「え、うーん……笑顔が素敵な人?」

言いながら、頭にふっと浮かぶ、夏也の顔。
目を細めて見つめられると、心をそっと包まれる感覚がする。
くしゃっと笑った顔は明るくて、空気まで軽くなる。
あんな無防備な笑い方、反則だ。

「じゃあ、内面では?」

香唯が屈託のない表情のまま尋ねてくる。
杏捺は少し考えたあと、ゆっくり口を開いた。

「頼りがいがあって、親しみやすくて……意地悪だけど優しい人、かな」

みんなから信頼されていて、自然と人が集まる人気者。
面倒見が良くて、太陽みたいに明るくて。
そして……まっすぐで、強い人。

頭ではさっき思い浮かべた笑顔がまだ残っていて。
夏也のことを考えると、自然と口角が上がる。

「やけに具体的だね?」

香唯に言われて、杏捺はハッとした。
言葉にしてみると、まるでそんな人がいるように聞こえた。
自分が夏也をどう見ているかが、じわじわと浮かび上がる。

「ははーん? なんか今、誰か想像したでしょ」
「えっ、いや、別にそういうんじゃ……」

美衣葉がニヤついた顔で言って、慌てて否定する声がほんの少し上ずる。
あやしい〜、と香唯も隣から杏捺をつつく。
気づけば、杏捺の頬はみるみる熱くなっていた。
輝いた目で詰め寄られて、曖昧に笑いながら誤魔化す。

「2人とも、杏捺が困ってるからそれくらいにしな」
「ちぇー。綺尋は優しいなぁ」
「別に、杏捺が可哀想だから言ってるだけ」

綺尋はしれっと一瞥して、また食べ始めてしまう。
香唯はまだ残念そうにしていたものの、これ以上聞くのはやめたようだった。
美衣葉も渋々引くように、再びお弁当に箸をつけた。
しかし話し足りないのか、その矛先は綺尋へ向く。

「そういう綺尋は、どんな人が好きなの?」
「わ、私の話はいいでしょ!?」

美衣葉と香唯が綺尋をからかう声を聞きながら、杏捺は胸を撫で下ろした。
内心ヒヤヒヤしたものの、どうやら誤魔化せたらしい。

けれど、安心したはずなのに、心がまだ落ち着かない。
夏也のことを隠している後ろめたさとは、少し違う。
もどかしさと、好きが溢れそうになる自分。
その全部が混ざって、落ち着かない。

「あ……昨日作ったマフィン持ってきたんだけど、みんなで食べない?」

杏捺は気持ちを整えるように言った。
語尾がほんの少しだけ上ずって、話題を遠ざけるような声だった。
包みを出すと、美衣葉と香唯の質問攻めがぴたりと止まる。

「いいの!?」
杏捺のマフィン大好き!」

ふたりが嬉しそうに身を乗り出す。
どれにするか選んでいる隙に、向かいの綺尋と目が合った。
ありがと、と綺尋の口が動いて、杏捺は小さく頷きながら微笑んだ。