「こら。アップ、ちゃんとしろ!」
その一言が静けさを裂いて、杏捺は反射的に背筋をぴんと伸ばした。
夏也のよく通る声がグラウンドに響いて、部員たちがざわつく。
どうやら1年の男子たちがランニングを抜いたらしい。
ここ最近、みんなどこか緩んでいる気がした。
泳げない日が続いて、陸トレばかりなのが原因かもしれない。
そんなわずかな心の乱れを、杏捺は薄く感じていた。
「えっ……だって、なぁ」
「アップにそんな……」
1年の男子ふたりが、気まずそうに顔を見合わせて軽口を叩く。
軽い言い訳を聞いた瞬間、夏也の眉がわずかに動いた。
ひやりとした感覚が背中を走る。
けれど杏捺は、一点に意識を奪われていた。
夏也の雰囲気が、変わった。
「……じゃあ、勝負しろ」
低く落とした声は、空気をさらに冷たく引き締める。
けれどその奥には、火種のような熱が確かに潜んでいた。
「えっ」
「適当なアップで全力出せるんなら、やってみろよ」
ふたりは固まって、開いた口が塞がらない。
その様子を見ながら、杏捺は心の中で小さく息をついた。
また、夏也の暴走が始まったか、と。
キャプテンとしての責任感。
負けず嫌いな性格。
部を強くしたいという真っ直ぐさ。
そんな感情を抱えたまま、夏也は時々こうして突っ走る。
でも、その姿が嫌いじゃない。
むしろ好きだった。好きで、胸が苦しくなる。
止められない。またどうしようもなく好きになっていく。
「尚、スタート」
「はいはい」
夏也が言うと、尚が慣れた調子で返事をする。
ホイッスルを首にかけて、スタート位置に立った。
その横で、夏也は迷いなく次の指示を飛ばす。
「航太、ゴール」
「おっけ」
航太がストップウォッチを持って、50メートル先のラインへ向かっていく。
あまりにも自然に動くのを見て、杏捺は思わず口元を緩めた。
夏也が誰を信頼しているのか、言葉にしなくても伝わってくる。
そんなふうに思っていた矢先だった。
「杏捺」
名前を呼ばれた瞬間、杏捺の身体がびくんと跳ねた。
その反応に、夏也がほんの一瞬だけ動きを止める。
「……これ、持ってろ」
脱いだジャージを、無造作に差し出してくる。
「えっ、はい」
慌てて受け取ったジャージには、夏也の体温がまだ残っている。
冷えた空気の中で、その温度だけがやけに鮮明だった。
まさか自分が呼ばれるとは思っていなかった。
夏也が名指しで指示を出す相手は、限られている。
その意味に気づいて、触れられたわけでもないのに、頰がじんわり熱くなった。
尚のホイッスルが鳴り、3人が一斉に走り出す。
杏捺はジャージを胸に抱えたまま、その背中を目で追った。
誰が勝つかなんて、最初からわかっている。
案の定、夏也は後輩ふたりを軽く置き去りにしてゴールへ駆け抜けた。
「そんな適当にやってっと、怪我するぞ」
息も乱さず、夏也が後輩ふたりを叱る。
その言い方は厳しいのに、どこか優しさがあって。
「全員、アップは怠らないこと!」
今度は部員全体に向けて声を張る。
部員たちの返事が揃って響き、冬空に吸い込まれていく。
夏也は腰に手を当て、満足そうに頷いた。
「じゃ、練習メニューに戻るよ! 各自準備して!」
尚が取り仕切ると、部員たちは散っていく。
その流れの中で、杏捺の足は自然と夏也の方へ向かっていた。
「……夏也先輩、これ……」
「おう、悪いな」
夏也が落ち着いた様子で礼を言い、ジャージを受け取る。
その指先が、ほんの一瞬だけ杏捺の手に触れた。
触れたというより、かすめた程度なのに、意識がそこに引き寄せられる。
ふと、夏也が杏捺の方へ身を寄せて視線を落とした。
後輩を叱っていた鋭さは影もなく、柔らかい気配が滲む。
「杏捺、あとで……」
言いかけて、右手で左耳にそっと触れる。
あとで会おうという、ふたりの秘密の合図。
夏也は眉を少し下げ、心配そうに杏捺を見つめた。
さっきまでの表情とは、まるで違う。
目が合った瞬間、杏捺の呼吸が浅くなる。
熱を帯びた視線が絡んで、ほんの一瞬、空気が甘く溶けた。
逃げられない。ずるい。そんな気持ちが胸に広がる。
ずっとキャプテンの顔をしていたくせに、急にこんな顔をするなんて。
杏捺はその瞳を見つめ返し、ゆっくりと頷いた。
◇
部活が終わる頃、空は雲が満ちていた。
音もなく降り始めた雪が、影を淡くぼかしていく。
杏捺は帰り道から少し外れた脇道へ入った。
細い路地の、空き家の裏側。
ふたりが会う、秘密の場所。
マフラーを少し緩めると、冬の乾いた匂いが染み込んだ。
吸い込んだ夜風はひんやりと胸を満たしていく。
そうして待っていると、聞き慣れた足音が近づいてきた。
「おつかれ、杏捺」
「お疲れ様です」
夏也はポケットに手を突っ込み、肩をわずかにすぼめている。
寒さのせいだけではない、どこか落ち着かない気配があった。
「どうかしたんですか?」
「あー、えっと……」
頭を掻き、視線が揺れる。
その迷いが、雪の静けさの中でやけに際立って見えた。
なんとか言い表そうと数秒沈黙してから、ようやく杏捺と目を合わせる。
「怖がらせたよな?」
杏捺は瞬きをした。
なんのことか一瞬わからなかった。
夏也の心配そうな顔を見て、ようやく思い当たる。
部活中の、あの鋭い声。
「びっくりはしましたけど……怒ってる顔も、好きですよ……?」
「……そうじゃなくて」
杏捺が思ったまま口にすると、夏也はわずかに目を丸くした。
そしてすぐに言い返した。
いじけているのか、照れているのか、どこか拗ねているようにも見える。
「嫌、だったろ。ああいうの」
「えっ」
まるで自分を責めているように言った。
杏捺はきょとんとしたあと、首を横に振る。
「夏也先輩が暴走すると止められないって、もうみんなわかってますよ」
「……マジか」
夏也の肩が少し落ちて、困ったような顔をした。
その表情の奥に、少しだけ自嘲が混じっているの気がした。
「俺さ、部長としては情けねぇよな。すぐ熱くなるし、周り見えなくなるし……」
「そこがいいんじゃないですか」
「え?」
「熱くなれる人だからこそ、引っ張られるんです。私たちみんな」
静かな路地に、ぽつりと言葉が落ちていく。
杏捺の声は小さかったが、確かな力を持っていた。
雪がふたりの間に落ちて、白い粒がじんわりと溶ける。
「それに……注意できるのは、それだけちゃんとみんなのこと見てるって証拠ですから」
夏也は驚いたように、眉を上げた。
否定も肯定もできないまま、喉の奥で言葉が止まる。
ゆっくりと瞬きをして、杏捺の反応を確かめたあと、息を吐く。
白い息がふわりと揺れ、夏也の胸の内の迷いを映すようだった。
「お前はちょっと、優しすぎる」
「そうですか?」
杏捺は返事をしながら、夏也の横顔をそっと見上げた。
視線がわずかに揺れ、夏也は意地悪く笑う。
「特に……俺に甘い」
夏也は笑いながら、杏捺の額をつついた。
つつかれた場所が、熱を持ったように温かくなる。
「痛いですー」
軽く抗議しながらも、杏捺はつられて笑ってしまった。
「でも、時々は夏也先輩が甘えてくれたら嬉しいなって思ったりします」
「……甘えるって、お前な……」
夏也の言葉を待つように杏捺は黙って首を傾げる。
ふたりのあいだに雪が舞い落ちて、街灯の光がその粒を淡く照らした。
その沈黙は、気まずさではなく、どこか安心したような静けさを含んでいた。
「……ありがとな」
その一言が、雪のように柔らかく胸に溶けていった。
杏捺はやわらかく微笑み、ゆっくりと頷いた。