雲のない晴れた空に、星が滲むように浮かび始めていた。
吐き出す息がほどけて、その名残が宵闇に溶けていくのを目で追う。
もう季節が移り変わる頃だというのに、この時間帯はまだ冷える。
夏也は、まだ来ない。
いつもなら、もう足音が近づいてくる頃なのに。
待つ時間が長いほど、そわそわと落ち着かなくなる。
手袋の下でかじかんだ手を握っては広げる。
暗い空を見上げたり、うつむいて足元の影を見つめたりしていた。
もう何度目かわからないため息が、白く浮かんで消えた。
「まだかな……」
そのときだった。
砂利を蹴るような音が聞こえて、顔を上げた。
路地の奥から、荒い息を吐きながら夏也が駆け込んでくる。
「夏也先輩……っ」
言い終わるか終わらないかのうちに、強い力で抱きしめられた。
広い胸と頼もしい腕にすっぽりと包み込まれ、無意識に身を縮めた。
「……悪い、鍵閉めんの遅くなった」
耳元で呟くような声が、やけに優しくて安心する。
夏也の匂いに包まれて、そわそわした。
走ってきたせいか、心臓が激しく鳴っているのがわかる。
落ち着くけど、落ち着かない。
そんな矛盾した気持ちが、杏捺の頭に渦巻いていた。
「……寒かっただろ」
「大丈夫です。そんなに待ってませんから」
そう言って首を振ったが、夏也はそっと身体を離し、杏捺の顔を覗き込んだ。
手袋を外して、頬を両手で包むように触れる。
じんわりと染み渡る温度に、思わず目が細くなった。
「嘘つけ、バレてんだよ。こんなに冷てぇのに……」
「……ごめんなさい、迷惑……かけたくなくて」
素直になれない自分が、なんだか情けなく思えた。
そんな杏捺の心情を察したのか、夏也は困ったように眉尻を下げて笑うと、包み込んだ頬を指で撫でる。
「責めてねぇって。謝んな。大事にしたいんだから」
夏也の声に、泣きたくなるほど胸がきゅんと締め付けられる。
大好きな気持ちが溢れて止まらない。
それを言葉にしたくて、杏捺は口を開いた。
「私も……夏也先輩のことが、大切です」
ふわりと笑顔をほころばせた杏捺を見て、夏也が白い息を吐いた。
「……あーもう、可愛いな」
「な、何ですか急に……」
「可愛いから可愛いって言ってんだよ」
夏也が目を伏せ、長いまつ毛が震える。
その仕草だけで、杏捺は甘い色気を感じてしまった。
顔が火照っていくのが自分でもわかった。
「夏也先輩って体温高いですよね……」
頬の熱を隠すように、ぽつりと零した。
夏也が眉間に皺を寄せ、うっすらと瞼を下げて不満そうに返す。
「……それって、褒めてんのか?」
「褒めてますよ……あったかい、です」
夏也は杏捺の後頭部に手を添えて自分の方へ引き寄せた。
額を合わせるように顔が近づいて、鼻先が触れそうな距離に杏捺は目を閉じる。
「……杏捺は寒がりだよな」
優しく、重ねるだけのキスが落ちてきた。
柔らかい感触と温かいぬくもりに、杏捺は身を任せる。
何度しても恥ずかしいけれど、満たされた気持ちでいっぱいだった。
夏也が名残惜しそうに身を離し、杏捺の髪をさらりとかき分ける。
真っ赤になった顔を隠せずにいる彼女を見て、自然と笑みがこぼれた。
いつまで経っても慣れない彼女が可愛くて仕方がない。
照れたように視線を揺らす杏捺に、夏也はぽつりと言った。
「……もっと、あっためてやるよ」
軽いものではなく、強く押し付けるようなキスに戸惑いを隠せない。
下唇を優しく吸われ、杏捺はびくっと身体を震わせた。
「なつやせんぱ……」
「いいから」
低い声に甘い強引さが混じって、急かすように短く囁いた。
再び唇を塞がれ、今度は優しく舌先でなぞられる。
慌てて身を引いたが、大きな手が後頭部に回されて逃げられない。
「ほら、逃げんなよ。口開けろ……」
熱を帯びた瞳と真正面から目が合い、杏捺は息を詰めた。
「ちょっと待っ」
言いかけたところで、言葉は飲み込まれた。
夏也の舌が口の中に入ってきて、ぬるりと絡みつく感触に頭が真っ白になる。
呼吸の仕方も分からないまま、無意識に止めてしまう。
ちゅっと小さな音を立てて唇が離れると、杏捺はうっすらと目を開けた。
「息、しろって……」
杏捺は息を吸おうとするのにうまくいかず、浅い呼吸を繰り返す。
耳の奥で心臓が高鳴るのを意識してしまう。
「……可愛い」
まだ息が整わないまま、唇が触れ合った。
初めての経験に戸惑いながらも、素直に受け入れてしまう。
舌の側面を柔らかく擦られ、全身がぞくりと震えた。
「ん……!」
思わず声が漏れて、恥ずかしさに身を引く。
逃さないとでも言うように、夏也の手が腰を支えた。
膝が崩れそうで、杏捺は夏也の背に手を回し服を掴んだ。
今までの軽いキスとは全く違う、濃密な感覚。
冷たい夜風が路地を吹き抜ける中、夏也の体温だけがはっきりと伝わってくる。
ようやく解放された唇からは、小さな吐息が漏れた。
頭の中はまだふわふわしていて、力が抜けていく。
「……おい、平気か?」
「は……い」
呼吸を整えようと、杏捺の肩が小さく揺れた。
唾液で濡れた唇を拭う余裕もなく、ただ呆然と目の前の夏也を見上げている。
「こういうの、嫌か?」
こんなに意識を奪われるキスなんて、初めてだった。
恥ずかしさと混乱で顔が真っ赤になっているのは自覚していた。
首筋まで熱くなっているのが自分でもわかる。
「……嫌、じゃないです」
自分の声が震えていることに気づきながらも、正直に告げた。
夏也の顔に安堵の色が浮かぶ。
その表情に杏捺の胸がきゅっと締めつけられた。
「なんか……まだ、どきどきしてて……」
「……あんま可愛いと、加減できねぇから」
「っ!」
その一言に杏捺が小さく息を呑む。
自分の反応があまりにも露骨過ぎて、穴があったら入りたい気分だった。
杏捺の潤んだ瞳に、夏也はぞくりと背筋に甘い震えが走るのを感じた。
「まだ、寒いか?」
「え……」
これで寒いと言ったら、どうなるんだろう。
そんな想像がよぎり、杏捺はただ夏也を見つめることしかできなかった。
深いキスの余韻が、まだ身体の芯に強く残っている。
夏也も抑えきれない欲を含んだ眼差しで彼女を見下ろしていた。
杏捺が答えられないでいると、夏也は低い声で囁いた。
「なぁ……もう1回、するか」
指先がわずかに震えるのを感じながら、杏捺は夏也の肩に手を置く。
言葉にするのは恥ずかしかった。
心臓が痛いくらいに鳴って、恐る恐る目を閉じた。
それが返事だとわかっているかのように、夏也の唇が再び杏捺を求める。
冷えた夜の空気の中で、ふたりの熱だけが溶け合うように重なった。