久しぶりの塩素の匂いに、杏捺は胸がふっと軽くなるのを感じた。
いつもはスイミングスクールなどに使われるこの屋内プールを、岩鳶中水泳部が借りられるのは月に数回だけ。
最近はその機会もほとんどなく、陸トレばかりで空気が少しずつ荒れていた。
今日ようやく許可が下りて、部員たちはプールサイドに出た瞬間から浮き足立っていた。
天井に反響するざわざわとした話し声、あちこちで跳ねる足音。
みんな気持ちが弾んでいるせいか、準備の手つきもどこか緩やかだ。
夏也が備品のカゴを抱えたまま、呆れたように眉を寄せた。
「おい、喋ってないで準備終わらせろよ」
その口調は冬の頃より柔らかく、杏捺はつい顔をほころばせた。
夏也だって、久々のプールが嬉しいのだと伝わってくる。
実際、ウォーミングアップはいつもより気合が入っていたように思う。
水に入ると、ひんやりとした感触が肌に心地よく触れた。
重力から解放されて、身体がふわりと浮き上がる。
それぞれが得意種目でアップを始め、杏捺もバックを泳ぐ。
照明の光に照らされて、時折きらりと飛沫が宙を舞った。
水の音に混じって、あちこちから明るい声が聞こえてくる。
それを聞いているだけで、心の底まで温かくなっていった。
みんな、泳ぎたくて仕方ないのだ。
続いて、尚のホイッスルが響き、順番にクロールを始める。
手のひらで水を捉え、キックで身体を前へ運ぶ。
水を掻く音と、自分の呼吸だけが近くなった。
考えるより先に身体が動いて、頭の中が少しずつ澄んでいく。
その感覚が心地よくて、杏捺は泳ぐことに夢中になっていた。
気づけば、この時間を楽しんでいる自分がいた。
インターバル練習を終え、一旦プールサイドに上がる。
息を整えていると、力強い泳ぎに視線を奪われた。
水面を滑るように進む夏也の背中。
クロールのキックが水を切り裂く音が耳に届く。
彼の指先が水を掻き分け、押し出すたびに波紋が広がっていく。
夏也の泳ぎには迷いがない。
速さを求め、勝利を目指し、ただ真っすぐに進む。
無意識に、タオルを持つ手に力を込めていた。
胸に熱いものがじんわりと滲む。
それは憧れでもあり、尊敬でもあった。
久しぶりにカメラを構え、液晶越しにフォームを追っていく。
そのとき、隣のレーンで泳ぐ航太の姿に、ふと何かが引っかかった。
ファインダー越しに航太の泳ぎを追いながら、何度かシャッターを切る。
撮った写真を確認して、ようやく違和感の正体が見えた。
「……あれ?」
プールサイドに上がった夏也が、杏捺の小さな呟きに気づいて近づいてくる。
「どうした、杏捺」
「部長、航太先輩の泳ぎ方……ちょっと変わってませんか?」
杏捺が差し出したカメラの画面を、夏也が覗き込む。
液晶の中に映る航太のクロールは、いつもと同じに見えた。
撮った写真を順番に表示していくと、夏也も少し声を零した。
キックのタイミングと上半身のバランスが、以前とは微妙に違っている。
「……確かに」
「本人に自覚があるのかは、わかりませんけど……」
顔を上げると、ちょうど航太が泳ぎ終えてプールサイドに手をかけたところだった。
夏也は少し考えてから航太のいる場所まで近づき、片膝をついて声をかける。
杏捺も後をついていき、合わせるように膝を曲げて屈んだ。
「航太、フォーム変えたのか?」
「ああ……このほうが泳ぎやすくて」
航太がゴーグルを取って、プールサイドに上がる。
肩が規則的に上下し、呼吸を整えるたびに水滴が流れ落ちていく。
その表情には、感覚を取り戻そうとする集中が滲んでいた。
それでも、久しぶりに水の中へ入れたことを楽しんでいるのは伝わってくる。
「腕の回し方も変えましたよね?」
「そこまでわかるんだな」
「さすが杏捺、よく見てる」
夏也が立ち上がりながら言うと、航太が軽く笑った。
そのやり取りがなんだか嬉しくて、杏捺もつい頬がゆるむ。
「わかりますよ。夏也先輩のフォームに似てきましたよね」
「えっ」
「えっ」
ふたりの声がぴったり重なって、杏捺は慌てて瞬きをした。
「え……あれ? 私、なんか変なこと言いました?」
「いや、意識はしてなかったんだけど……言われてみればそうなのかも」
航太が苦笑して、頭を掻く。
照れ隠しのようでいて、どこか納得したように頷いた。
「航太お前……俺に引っ張られすぎだろ」
「知らないうちになってたんだって!」
航太は言い訳するみたいに肩をすくめる。
言い合っているふたりに、杏捺は口を開いた。
「でも夏也先輩だって、航太先輩の隣で泳ぐとリズム変わってますよ?」
「……それはわかってるから言わなくていい」
そう言って眉間に皺を寄せた夏也の耳の先は、わずかに赤くなっていた。
お互いが影響を与え合っていることを、ふたりはまだちゃんとわかっていないのかもしれない。
それでも、自然と認め合い、引き寄せ合っているように見えた。
そんな関係性が、なんだかとても微笑ましくて、杏捺は目を細めた。
「でも、それがお前にとって本当にいい方向なのか、ちゃんと確認しないと」
「……じゃあ、もう少し泳いでみてから報告していいか?」
「わかった。無理すんなよ」
「了解」
航太が再び泳ぎ始めると、夏也はバインダーを開いた。
ペンを探す指が一瞬止まる。
杏捺はその癖をよく知っていて、迷わず自分のペンを差し出した。
「どうぞ」
「おう」
夏也は驚くでもなく、当たり前のように受け取る。
触れた指先の温度が、杏捺の手にそっと残った。
最近、こういう些細な瞬間が本当に増えた。
次に何をするのか、自然とわかるようになってきている。
「よく気づいたな」
「え?」
バインダーにメモを書き終えて、夏也が顔を上げた。
その声がいつもよりほんの少しだけ柔らかく聞こえて、杏捺は息を詰める。
「俺のフォームに似てるって」
「……だって、ずっと見てましたから」
言った瞬間、自分でも驚くほど率直な言葉だったと気づいた。
杏捺は慌ててジャージの襟に顔を埋めた。
夏の間、カメラ越しに追い続けたフォーム。
毎日のように見つめた動きだからこそ、自然と覚えていた。
思った以上に自分の中に積もっていたのだと、今さら自覚する。
そして泳げない日々が続いたからこそ、今日はみんなの泳ぎに集中していた。
「航太先輩も、きっとそうですよ。いつの間にか自分に染み付くくらい」
照れくささを隠すように言うと、夏也は唇を軽く開いた。
ほんの一瞬の反応だったが、確かに心のどこかに触れたのだとわかる。
誤魔化すような小さな咳払いをしたあと、次のメニューを確認するようにバインダーを見た。
「代わりますよ」
突然かけられた言葉に、夏也がきょとんとした顔をする。
杏捺は口元に手を当て、ふたりにしか聞こえない距離でそっと囁く。
「夏也先輩……泳ぎたいでしょ?」
杏捺が軽く微笑むと、夏也は驚いたように固まった。
そして、すぐに我に返ったように眉をひそめる。
表情は冷たく見えるのに、向けられた視線だけがわずかに熱を帯びていた。
「……ありがとな」
杏捺がバインダーを両手で受け取ろうとした瞬間、夏也の指が重なった。
触れたと思った途端、指先に浅く絡みつき、優しく撫でるように動く。
バインダーの影に隠して、誰にも見えない角度で。
一瞬で鼓動が跳ね上がる。
「じゃ、タイム頼む」
夏也はそう言い残すと、するりと指を離して水の方へ歩いていった。
杏捺は固まったまま、その広い背中を見つめることしかできなかった。
頬が熱くなり、思わずバインダーで顔の半分を隠す。
「……もう、夏也先輩、不意打ちです……」
声にならないほどの小さな呟きは、誰に聞こえることもなく消えていった。
夏也がスタート位置につくと周囲の雰囲気が変わる。
泳ぎだした彼のフォームは、以前よりもさらに洗練されていた。
腕が水を切り裂く様は相変わらず力強い。
杏捺はストップウォッチを握りしめながら、胸が熱くなるのを感じていた。