「じゃ、解散!」
夏也の声が部室に響くと、部員たちは一斉に背筋を伸ばした。
「ありがとうございました!」
ミーティングが終わり、いつもの挨拶をすると、張りつめていた空気がほどけた。
部員たちはそれぞれのペースで帰り支度を始め、影がひとつ、またひとつと伸びては消えていく。
扉の音や笑い声が少しずつ減っていき、部室のざわめきはゆっくりと薄れていく。
杏捺はそこで初めて、床に落ちる夕陽の色に気づいた。
自分の荷物を片付け終えると、共用棚へ向かった。
誰も気に留めないような細かな場所まで整えていくのは、いつもの癖だ。
こうして手を動かしていると、自然と頭の中も整理される。
散らばった備品をひとつずつ戻していると、次第に尚と夏也の声が届くようになった。
「1年、入ってくれるといいけど」
「そうだな……」
尚の言葉に、夏也は髪を掻き上げながら曖昧に返事をした。
ノートへ落とした視線は、そのまま動かない。
「……尚、引き続き教育係、頼めるか?」
「ああ。経験者でも、俺が教えられることはあると思うよ」
尚が迷いなくそう答えるのを、杏捺は静かに見つめていた。
その言葉の重さを、何となく感じ取って俯いてしまう。
「俺の指導で伸びてる子もいるし……ね。杏捺」
突然名前を呼ばれ、杏捺は思わず身体が跳ねた。
「え、はいっ……え!? わ、わたしですか?」
夏也が口元をゆるめ、尚が肩をすくめてみせる。
ふたりの何気ないやり取りを見ていると、自然と肩の力が抜けた。
こうして他愛もない話に混ざれる時間が心地いい。
「杏捺は体が柔らかいし、水の中でも落ち着いてる」
「基礎がちゃんとしてるから、なにか新しく取り入れても姿勢がブレないよね」
「あ……ありがとうございます」
杏捺はそう言って、控えめに笑った。
自分が特別優秀な選手とは思っていないけれど、純粋に嬉しい。
「記録も正確だし、細かいところによく気づくし」
「こうやって率先して手伝ってくれて、気配りもできる」
大げさに言い始めたふたりに、杏捺はきょとんとしてしまう。
こんなふうに真っ直ぐ褒められるのは慣れない。
「あ、あの……私、別に普通ですよ? ただできることをしてるだけで……」
杏捺は慌てて首を横に振った。
どこかくすぐったくて、顔に熱がこもるのが自分でもわかる。
「そういう謙虚なとこも……」
「いいところだよな」
夏也と尚が顔を見合わせる。
その瞬間、ふたりの口元に同じような笑みが浮かんだのを見て、杏捺はようやく気づいた。
からかわれている。
「ちょっと、夏也先輩も尚先輩も……からかわないでくださいよ!」
声が少し上ずった。
夏也が笑うのにつられて、尚も軽く吹き出して言う。
「照れるとすぐ真っ赤になるよな、杏捺は」
「もう! やめてくださいってば……!」
ふたりの笑顔は、決して意地悪なものではなかった。
ただ、少しだけ、杏捺をからかうのが楽しい、そんな空気が漂っていた。
尚がふっと時計に目をやり、鞄を手に取った。
「じゃ、俺は先に帰るから……戸締りよろしく」
そう言って、軽い調子で鍵を放る。
放物線を描いた鍵を、夏也が迷いなく片手で掴む。
あまりにも自然なその動きに、杏捺は見入ってしまった。
尚は荷物を肩にかけると、ふたりを残して部室を出ていった。
扉がゆっくりと閉まり、そのあとに残った静けさだけが部室を満たした。
「ったく、尚のヤツ……わざとだろ」
夏也がぼやきながら、軽く頭をかいた。
ふたりきりになった部室は、さっきまでのざわめきが嘘みたいに静かだった。
扉が閉まったあとの空気は、急に濃くなったように感じられる。
時計の針の音だけが、やけに大きく聞こえた。
棚を整理するのを見ながら、夏也が言う。
「……相変わらず細かいな、ほんと」
杏捺は手元のファイルを整えながら、小さく息を吐いた。
「誰かが探せなくなると困るので」
「真面目だよなぁ」
その言葉は、どこか呆れと、どこか感心が混ざっているような響きだった。
杏捺は少しだけ視線を上げ、夏也の横顔を窺う。
「それって褒めてます?」
「褒めてる褒めてる」
夏也がそっぽを向きながら手をひらひらさせる。
その仕草が妙に軽くて、杏捺は思わず笑ってしまった。
緊張が少しだけほどける。
ふたりきりなのに、不思議と居心地が悪くない。
むしろ、この沈黙が心地いい。
夏也も片付けようと鞄を動かした拍子に、紙が一枚すべり落ちる。
白く薄い紙が、夕陽を受けて一瞬だけ光を反射した。
「夏也先輩、なにか落としましたよ」
「ん……ああ」
床に落ちた紙を拾い上げた拍子に、その表題が杏捺の目に入る。
「……進路調査……」
「もう、受験だからな」
無意識に漏れた杏捺の呟きに、夏也が短く返す。
その一言で、卒業という言葉が頭をよぎる。
先輩と過ごせる時間は、思っているより長くないのかもしれない。
まだ先だと思っていた未来が、急に近づいた気がした。
夏也は折れた角を指先でなぞり、そっと整える。
紙を見つめ、そのまましばらく何も言わなかった。
「決めました? やっぱり強豪の鮫柄ですか?」
「んー……」
夏也は紙を鞄へ戻しながら、曖昧に返事をした。
肯定とも否定とも取れない声に、杏捺の眉がわずかに下がった。
それでも、夏也ならきっと大丈夫だと思えた。
それ以上話が続きそうになく、杏捺は別の話題を探した。
棚の中を少し整えながら、新しく1年の記録ファイルが入る未来を想像する。
「今年の1年生、どうですかね……」
杏捺の言葉が落ちた瞬間、夏也が顔を向けた。
その目が、さっきまでより少しだけ明るく見えた。
「岩鳶SCのヤツが入学してきたらしい」
夏也の声が弾んで、杏捺は棚から手を離した。
岩鳶SC。
親戚の子も通っている、昔からある水泳教室だ。
「知ってるんですか?」
「七瀬遙は、特に有名だな。俺も大会で名前を目にしたことはあるし、上級生にも勝つくらい速いって聞いてる」
少し早口になった夏也の声には、自然と熱がこもっていた。
杏捺は、そんな彼から目が離せなかった。
水泳の話をしているときだけは、いつもの横顔とは違って見える。
「水泳部、入ってくれるといいですね」
「……来なけりゃ勧誘にでも行くか」
冗談なのか本気なのかわからないけれど、夏也なら本当にやりかねない。
そう思うと、杏捺は小さく笑ってしまった。
「怖がらせないでくださいよ? 夏也先輩、ちょっと強引なとこあるので……」
「俺ってそんなに強引か? まあ、気をつけるよ」
あっけらかんとする夏也の様子に、杏捺は呼吸をひとつ深くした。
もしかして、自覚がないのだろうか。
苦笑して片付けを再開する。
棚のファイルを一冊ずつ整えながら、何気なく新1年生のことを考える。
そこで、ふともうひとりの新入生のことが頭に浮かんだ。
「……そういえば、弟さんも入学したんですよね」
メモを取っていた夏也の指先が、言葉に反応するように止まった。
「まぁ、な。……あいつ、どうなるかな」
夏也の目線がふっと遠くへ流れた。
これ以上は触れないほうがいい、と杏捺は直感する。
郁弥とのぎこちない関係は、以前聞いて知っていた。
会話が止まり、沈黙がふたりの間に落ちる。
杏捺は背伸びをしながら、最後のファイルを棚へ入れようと手を伸ばした。
視界の端で影が動き、夏也が何も言わずに後ろからファイルを取る。
「……手伝ってくれるんですか?」
「別に。そこ、届きにくいだろ」
「ありがとうございます」
「ん」
夏也の手が、ぽんと優しく頭に触れて、杏捺は瞬きをした。
触れられた感覚が残っていて、痛くもないのに思わずその場所へ両手を添えた。
頭に残る温もりが、いつまでも消えない。
「……終わったんなら帰るぞ」
そう言いながら、夏也が鞄を肩にかけた。
「はい……」
杏捺も荷物を手に取り、その背中を追いかけた。
部室を出ると、夏也が鍵を閉め、少し前を歩き始める。
夕陽に照らされ、ふたりの影が長く伸びた。
また、あの水の季節が来る。
風に吹くたび、夏也のシャツの裾がかすかに揺れた。
先輩はどこを見ているんだろう。
夏也は何も言わず、オレンジ色の中を静かに歩いていく。
その大きな背中を見つめながら、杏捺は手を伸ばしかけて、そっと下ろした。