杏捺が水泳部に入部してから数日。
まだ慣れない空気に緊張しながら、プールを見ていた。
水面がきらきらと光を跳ね返して、先輩たちの泳ぐ音が静かなリズムで耳に届く。
杏捺の視線は自然と、ある一人に吸い寄せられる。
水を切る力強いフォーム、ターンの速さ。
何より水から顔を上げるときの表情に、杏捺は息を呑む。
いつのまにか、夏也の姿を目で追う癖がついた。
でも、目が合うのは怖くて、いつもすぐに視線を逸らしてしまう。
夏也がプールの縁に手をかけ、こちらを見たような気がして、杏捺は慌てて視線を逸らした。
何度も、何度もそうしてしまう。
見つめてしまって、目が合いそうになると、怖くて逃げてしまう。
夏也は杏捺の視線を感じていた。
けれど、それに気づいた時には、彼女はどこか遠くを見るようで、いつまでも目が合わないまま。
俺もしかして嫌われてるのか?と夏也は眉間にシワを寄せた。
何度か挨拶しても、杏捺は笑顔で小さく返事するだけで、すぐ逃げるように離れていく。
「俺、なんかしたっけ……?」
入部初日、杏捺はどこか落ち着かない様子だった。
視線は泳ぎ、声は小さく震えていて、表情もどこかぎこちない。
夏也には、それがただの緊張にしか見えなかった。
けれど、真面目に話を聞こうとする姿勢だけは覚えている。
夏也はタオルを肩にかけながら、杏捺の背中を見つめた。
ちょっとだけ、優しく声をかけてみようと思った。
杏捺はプールサイドの隅でノートを開いて縮こまっている。
ページに泳ぎのフォームやターンのタイミング、先輩たちの動きの特徴を細かく書き込む。
その中でも、夏也の名前が多く並んでいた。
「なに書いてんだ?」
突然、すぐ後ろから声がして、杏捺はびくっと肩が跳ねた。
振り返ると、夏也が覗き込むように立っていて、距離が近い。
驚いた拍子に、手元のノートが滑り落ちた。
「あっ……!」
杏捺が手を伸ばすより先に、夏也がノートを拾い上げた。
ページがめくれたところで"肩から大きく腕を回して"と書かれた文字が目に入る。
「へぇ……真面目だな」
そう言いながら、夏也は杏捺にノートを返す。
ほんの一瞬だけ指先が触れ、彼女の鼓動が跳ねた。
先ほどまで水の中にいた夏也の手は、ひんやりとしていて、杏捺の熱をさらう。
杏捺は顔が赤くなるのを誤魔化すように、言葉を探した。
「……夏也先輩の泳ぎ、すごく綺麗で……勉強になります」
夏也は驚いたように目を見開いて、それからふっと笑った。
杏捺には、その笑顔がまぶしかった。
光が差し込んだように、あたたかくてほっとする。
見ているだけで満たされると思っていた。
「……なんだ、睨まれてるのかと思ってた」
「え、違います! そんな……!」
誤解を解消したくて、食い気味に返す杏捺。
その声が少し上ずって、夏也はまた楽しそうに笑った。
杏捺の心臓の音が、またひとつ大きくなる。
「それくらい真剣に見てるってことだろ。感心、感心。その調子で頑張れよ」
夏也の声は、いつもより柔らかかった。
それが杏捺には、特別なご褒美みたいに感じられた。
頑張ってきたことが、多少は報われた気がして、胸がふわりと軽くなる。
そして夏也は、あぁ、と思い出すように言う。
「俺の泳ぎ、参考にするのはいいから……よそよそしい態度、もうやめろよ?」
その言葉に、杏捺の胸がきゅっと締めつけられた。
距離を置いていたのは自分の方だったと気づかされる言葉だった。
夏也が背を向け、タイムを記録している部員に話しかける。
杏捺はそれを目で追った。
チェックシートのタイムを確認しながら話す姿に、寂しさのようなものが胸を占める。
杏捺の心は、変わり始めていた。
胸の奥がじんと熱を帯びるのを感じて、そっとジャージの胸元を握る。
夏也は、ずっと気づいていた。
視線も、態度も、全部。
それでもこうして、優しく声をかけてくれる。
優しい人。そう思った。けれど、それだけではなかった。
もっと話したい。彼の声を聞いていたい。
見ているだけで十分だったはずだったのに、今はそれじゃ足りなかった。
息が詰まりそうなのに、苦しくはない。
むしろ、嬉しくて、どうしようもなくて。
彼の言葉が、笑顔が、静かに響いて、波紋のように広がっていく。
この気持ちが、ただの憧れだとは、もう思えなかった。
名前をつけるなら、これが恋なのかもしれない。
杏捺は、そう呼びたいと思った。
◇
翌日、放課後の部活。水面は昨日と同じように揺れている。
昨日と同じ時間、同じ場所。けれど、杏捺の心だけが違っていた。
「おっす、杏捺」
「こんにちは」
夏也は杏捺にいつも通り声をかけた。
杏捺は昨日までの避けるような仕草はなく、目を合わせて挨拶を返す。
なにか吹っ切れたような表情に、夏也はニッと笑った。
「お、元気だな」
「夏也先輩のおかげです」
杏捺はそう言って両手の指先を合わせた。
2人にしかわからない会話に、少しの優越感。
昨日のことが夢ではなかったと実感して、更に嬉しくなる。
あの後、ずっと自分の気持ちを整理していた。
初めての感覚に戸惑って、どう受け止めればいいのかもわからなかった。
これはただの憧れなんじゃないか。自分に都合のいい解釈なんじゃないか。
何度もそう思っては、自問自答を繰り返した。
それでもやっぱり、彼への気持ちを、勘違いで片付けることはできなかった。
夏也はタオルを肩にかけながら、杏捺の隣に立った。
いつもよりほんのちょっとだけ、距離が近い。
それだけで、杏捺の胸が高鳴る。
「今日のメニュー、1年のは昨日よりきついかもな。頑張れよ」
何気ない言葉。けれど、今までとは違う。
彼の声が、まっすぐ自分に向けられている。
それが嬉しくて、杏捺は自然と頬が緩んだ。
彼の言葉は、そっと背中を押してくれるようだった。
杏捺は「はい」と答えながら、タオルの端をぎゅっと握った。
昨日の自分なら、きっと目を逸らしていたはず。
でも今日は、ちゃんと目を合わせて笑えた。
逃げなくなった自分を、少しだけ誇らしく思う。
昨日よりも彼の近くにいる自分が、嬉しくて仕方ない。
隣に立つだけで、こんなにも嬉しくなる。
声をかけられるだけで、幸せな気持ちになれた。
確実に、彼との距離が縮まっている。
この気持ちを、もう恋じゃないなんて思えなかった。
そう思えるだけでも、特別に感じられた。