ゴールデンウィークの午後は、まだ少し肌寒さが残っていた。
それでも陽射しは確かに強くなってきていて、動いていればTシャツ一枚でも汗ばむほど。
部活が始まる前、夏也が新入生の勧誘に成功したと、嬉しそうに報告していた。
だが入部は決まったものの、実際に入るのは連休明け。
だから今日は、2年と3年だけで朝からプール掃除をすることになっている。
「おい、航太! そこ水かけんなって!」
「かけてねぇし!」
デッキブラシを押しながらふざけて水を飛ばし合う。
杏捺は床を磨きながら、跳ねた水音に何度も気を取られた。
男子たちのはしゃぐ声が、少しだけ近く感じる。
「ちょっと、また飛んだ!」
甲高い声とともに水しぶきが跳ねる。
掃除というより水遊びに近い空気で、それぞれが自分の持ち場を楽しんでいた。
「男子って、ほんと元気だよね……」
「まぁまぁ、怪我だけはするなよ。あ、そこ滑りやすいから気をつけて」
女子の呆れ声が聞こえ、尚が穏やかに注意を促す。
それを聞きながら、杏捺は手元のデッキブラシを丁寧に動かした。
毛先が潰れないように力を入れすぎず、磨いた跡が少しずつ明るくなるのを確かめる。
息をつくと、ほんのり塩素の匂いが風に混じった。
プールの中心では、航太が相変わらず雑に水を撒いていた。
ふと、水の勢いが弱まる。
誰かがホースを踏んだらしく、航太が首を傾けて持ち上げた瞬間、踏んでいた足が離れた。
細い口から真上へ水柱が立ち上がり、午後の光を受けて高くまで跳ねる。
まるで噴水のようだ。
「ちょっと!」
「うわっ、冷てぇ!」
甲高い声と笑い声が一斉に上がり、みんなが慌てて散っていく。
水しぶきが空中で弧を描き、杏捺の腕にも細かな粒が飛んだ。
ふと見ると、舞い上がった水の中に小さな虹がかかっていた。
一瞬だけ現れて、すぐにほどけて消えていく儚い色。
「……きれい」
杏捺が独り言のようにこぼした言葉は、誰にも届かない。
得したような気分になって、唇の端が自然に緩んだ。
「バカ……なにやってんだよ!」
「わざとじゃねぇって!」
「あっ、おい! こっち向けんな!」
杏捺は男子たちの騒ぎの中に夏也の姿を見つけ、苦笑する。
先ほどから気を取られているのはこのせいだった。
結局、一番はしゃいでいるのは夏也だ。
水がほどける音、ブラシが床をこする音、男子の笑い声。
プールは練習のときとは違う種類の賑やかさで満ちていた。
騒いでいた輪から2年男子がひとり抜けてきた。
航太へ向かって歩いていき、裸足で床を踏むたびにぺしょっと音が響く。
「航太先輩、水こっちにもらっていいっスか?」
「おう」
航太がホースごと渡そうとした瞬間、隣の男子が受け取らずに立ち止まった。
水を向けてくれる、と勘違いしたらしい。
次の瞬間、勢いのままホースが暴れて、水が弧を描いて跳ね上がった。
「あっ」
「……っ!」
声とほとんど同時に、冷たい水が杏捺の上半身に叩きつけられた。
胸元から腹にかけて重みが伝わり、思わず肩をすくめる。
突然のことで避けられず、まともに水を受けてしまった。
顔の水滴を拭うと、大きな影が重なる。
駆け寄ってきた夏也が、迷いなく自分のジャージを杏捺にかけた。
「着とけ」
杏捺は弱い声で返事をしながら、ジャージに腕を通した。
長い袖から指先を出してファスナーを摘み、首元まで閉める。
内側に残っていた体温が肌に近づいてきて、ゆっくりと冷たさを溶かしていく。
布地に包まれている安心感と同時に、ふわりと残る夏也の匂いに胸がざわついた。
「杏捺マジごめん!」
「悪い、大丈夫か?」
謝罪の言葉が重なり、逆に杏捺の方が慌ててしまった。
それでも、この場で余計な心配をかけたくない気持ちの方が勝つ。
だが、心配する航太たちの声に反応する間も無く、夏也がふたりのほうへ振り向いて言う。
「おい、気をつけろ。水がなくてもプールは危険なんだから、ちゃんとやれ」
夏也が真顔で言う。
低い声がプールに響き渡り、場の空気が少しだけ固くなる。
「……自分だってさっきまで」
小さくぼやく声が聞こえたが、夏也が軽く睨むとすぐに静かになった。
「はいはい、みんな持ち場に戻る!」
見かねた尚が手を叩いて区切りをつけた。
先ほどまでの喧騒が戻ってきて、作業の輪が再び動き出す。
尚が一呼吸置いて杏捺のほうへ視線を向け、柔らかい表情で声をかけた。
「杏捺、大丈夫? 寒かったら部室に行っててもいいよ」
「いえ……平気です」
杏捺が短く答えると、夏也が肩越しにそのやり取りをちらりと見た。
◇
「杏捺、今日は着替えないでそのまま帰るの?」
濡れた髪を拭いていると、3年生から声をかけられた。
更衣室のざらっとした床に雫が落ちていく。
「それが……肌着までビショビショで」
制服に着替えたら、それまで濡らしてしまいそうだった。
杏捺はジャージの前を少し開けて、濡れたTシャツを見せる。
白い生地が肌に張り付いて、少し透けて見えた。
「杏捺それやばい」
「あらら、結構やられたね」
先輩たちの軽い声に、杏捺は苦笑いして溜息を零した。
このまま帰るしかない。
杏捺は制服を丁寧に畳んで、カバンにしまった。
「てか、すごかったよね。部長のあのスピード」
「思った。でも、ああしないと杏捺が危なかったもん」
杏捺はタオルを握る手に力が入った。
思い返すほど、頬がじんわり熱くなる。
あの瞬間、真っ先に自分のところへ駆け寄ってきた夏也の姿が、頭から離れない。
借りたジャージの感覚に気を取られたこともあり、作業の手が思うように進まなかった。
「部長って、相変わらず杏捺には優しいよね」
3年生のひとりが、にやりと口角を上げた。
冗談半分のつもりだろうけど、杏捺の鼓動がどきっと跳ね上がる。
「そんな、ことは……」
「……大丈夫?」
小さく否定すると、隣にいた友達が遠慮がちに小声で話しかけた。
その奥には、杏捺を心配する空気が流れていた。
杏捺は曖昧に首を振って、それ以上話を広げなかった。
ジャージの袖を無意識に握りしめて、視線を床に落とす。
「杏捺? 帰らないの?」
友達に返事をしようとして、言葉が喉の奥で止まった。
そういえば、夏也にまだ何も言っていない。
「あー……部長にお礼言いに行ってくる。先に帰ってて」
「了解。じゃあね」
帰るみんなを見送って、プール側のドアを開ける。
扉越しにそっと覗き込むと、プールサイドで夏也が最終チェックをしていた。
「夏也先輩」
近づいて呼びかけると、夏也が顔を上げる。
その目はいつものように強くはないが、柔らかかった。
プールサイドにはふたりだけ。
他の部員たちが帰っていったあとの静けさが、妙に大きく感じられる。
杏捺はジャージの袖を指で摘まみながら、小さく深呼吸をした。
風が少し冷たくて、濡れた髪の先が首筋に触れる。
「今日は……ありがとうございます」
そう言って頭を下げる。
杏捺の声は、静まり返ったプールサイドに少しだけ吸い込まれていく。
さっきまで騒がしかった場所なのに、今はふたりの呼吸まで聞こえるようだった。
「ん、気にすんなよ」
「夏也先輩がすぐ来てくれて助かりました。ジャージ、洗ってから返しますね」
杏捺が言うと、夏也は視線を外さずに肩をすくめた。
その仕草が妙に自然で、距離が近いことを意識してしまう。
「別にいいのに……」
夏也がふと杏捺の手元を見る。
その視線に気づいた瞬間、杏捺は思わず袖口を上げた。
「……ぶかぶかだな」
ほんの少し笑いながら呟く。
袖が長すぎて、指先がほとんど隠れてしまっている。
夏也のジャージを着ている、その事実に今更恥ずかしくなった。
「俺のだと、隠れちまう……」
夏也は自然に手を伸ばし、袖口を持ってゆっくりと捲り上げた。
指先が腕に触れる感触がこそばゆくて、杏捺の肩がわずかに強張る。
「あ、あの……」
「なんだよ。なんでお前のほうが照れてんだ」
「だって……ちょっと変な感じで……」
夏也は軽く眉を下げて、杏捺の顔を見た。
夕焼けの光が照らして、濡れた髪の先が柔らかく光る。
「嫌か?」
「そうじゃなくて……」
杏捺の体よりずっと大きなサイズのジャージが、彼女の輪郭を曖昧にする。
布の内側に残るわずかな温かさと匂いが、夏也の存在を色濃く感じさせた。
まるで、抱きしめられているみたいだった。
言葉を選ぼうとするほど、鼓動がせかすように速くなっていく。
「おっきいなぁ、とか……いい匂いするなぁ、とか」
言っていて、どんどん顔が熱くなる。
耳まで赤いのが、自分でもわかる。
「なんか、落ち着かなくて……」
「……お前な」
夏也の声が、わずかに低くなった。
「そういうこと言われると、俺もちょっと恥ずいだろ」
頭を掻いて、目を逸らす。
その何気ない仕草に、胸が締め付けられる。
嬉しさと恥ずかしさが一緒くたになって、どう扱えばいいのかわからなくなった。
「あ、ご、ごめんなさい」
「……荷物まとめて待っとけ。送ってくから」
そう言いながら、夏也は杏捺の肩に軽く手を置いた。
すぐに離れる、短い感触だった。
杏捺はジャージの裾を摘んで、小さく頷いた。