新しい波

連休が明けた午後のプールサイド。
新入生が初めて来て、水泳部に新しい顔が増える日だ。
いつもより少しだけ空気がざわついている。
杏捺はカメラのレンズを覗きながら、その変化を感じていた。

男子更衣室へ続く通路から、声が聞こえてきた。
挨拶をしようと、杏捺はゆっくり近づく。

「こっち側が……」

夏也が扉を押さえながら、後ろに続く男子たちに説明をしている。
トーンは普段と変わらないのに、どこか引き締まって聞こえた。
杏捺はカメラを胸の前で押さえ、ほんの一拍だけ迷ってから声をかけた。

「こんにちは」

夏也が気づいて振り返る。
その後ろに、見慣れない男子たちが数人、立っていた。
緊張した面持ちで、みんな少しだけ体を硬くしている。

「おう、杏捺。ちょうど良かった」
「あ、1年生……ですよね?」

杏捺がそう確認すると、男子たちの視線が自分の手元に落ちた。
どうやら手に持ったカメラが気になっているらしく、目が合わない。
ああ、と杏捺も目線を落とすと、夏也がすぐにフォローを入れた。

「これは、フォームをチェックするために撮ってるんだ」

杏捺は少しだけ身を乗り出すようにして、改めて自己紹介をした。

「2年の鳴海杏捺です。みんな写真は大丈夫ですか?」

一瞬、沈黙が落ちた。
はい、と小さく答える子、隣の子も続いて首を縦に振った。
うつむきがちにいた男子は、視線だけをわずかに上げて短く頷く。

「自分のフォームが気になったら、相談するといい。綺麗に撮れてるから」

夏也が付け加えた言葉は、いつもの調子なのに妙に真っ直ぐだった。
なんだか居たたまれない気持ちに、杏捺は思わず眉を下げた。

「部長、大袈裟です……」

ちょっと不満そうに言ったけれど、否定しているわけではなかった。
照れなくてもいいのに、と言うように、夏也は肩をすくめて笑う。
そしてすぐに新入生の方へ体を向け、また説明を始める。

声が続く間、杏捺は改めて1年生の顔をひとりずつ見ていった。
中性的な顔立ちの男子に目が留まり、心臓が小さく跳ねてざわつく。
夏也の弟だと、すぐにわかった。
唇を引っ込めて少し俯いているが、目元の雰囲気がどこか重なって見える。

ふと目が合って、妙な気まずさが指先まで広がっていく。
けれど、それを悟られるのは違う気がして、杏捺は意識的に笑みを作った。

 ◇

「全員集合!」

夏也のよく通る声がプールに響き、部員たちが一斉に返事をする。
水面がわずかに揺れて、部活の始まりを告げているようだった。

「今日から新入部員が入った」

夏也はプールサイドを見渡しながら続けた。
その表情は、いつもより少しだけ部長の顔になっている。

近々佐野中との練習試合があり、そのあとには記録会が控えている。
1年生も出場させる、と夏也は部員たちに告げた。
言葉の端々に、部長としての責任感が滲んでいる。

返事の声が一斉に上がり、部員たちの気配がぐっと引き締まる。
その響きが、杏捺の耳に静かに残った。

「こいつらが新しく入部した1年生だ」

夏也に促され、新入生たちが順番に自己紹介を始めた。
肩が上がっている旭。
緊張のせいか言葉が少し詰まる郁弥。
体格の割に穏やかな真琴。
敬語が抜けてしまう遙。
初々しさが、少しだけ眩しく見えた。

専門種目が分かれており、メドレーリレーは期待できそうだった。
エントリーできることを夏也が伝える。

しかし、遙の静かな声が、プールの広い空間にすっと伸びた。
その一言だけで、空気がわずかに揺れた気がした。

「俺は個人しか出ない……です。あとフリーしか泳ぎません」

瞬間、あちこちで驚きの声が上がった。
杏捺も思わず口を開ける。
遙の表情は揺れず、ただ真っ直ぐだった。
そのとき。

「……遙」

夏也の声が、いつもより鋭くなる。
空気が変わった気がして、杏捺は息を呑んだ。

詰め寄る夏也に、周囲がざわつく。
声を荒げて威圧する姿に、杏捺が小さくため息をついた。
やれやれ、と尚が頭を抱え、先生も目を瞑る。
もう誰も止められない。

「俺と50mで勝負しろ。種目は……フリーだ!」

夏也は勢いよくジャージを脱ぎ捨て、タンクトップも放り投げる。
女子たちが顔を見合わせてため息をつく。

杏捺も呆れつつ、ジャージとタンクトップを拾い上げた。
すっかりジャージ係になってしまったな、と軽く畳んで端に置きながら思う。

「あーあ、始まっちゃったね」
「あの子でしょ? 岩鳶SCで速いって。どうなるかな」

女子たちが呆れたように、でもどこか期待を込めて話す。
杏捺は膝を立ててしゃがみ、カメラを構えた。

隣の友達が杏捺に合わせて屈むと、小声で聞いてくる。

「杏捺は、どっちが勝つと思う?」
「夏也先輩」
「……だよねぇ。杏捺に聞いた私が馬鹿だった」

尚のホイッスルが響く。
飛び込みは、やはり夏也のほうが早い。

だが、遙の泳ぎは想像以上だった。
水を捉える感覚が違う。
水面が遙の動きに合わせて、まるで別のリズムを刻んでいる。

どっちが勝つかわからなくて、杏捺はタッチの瞬間から連写した。
シャッターの音が、止まらない。
考えるより先に、身体が勝手に写真を撮っていた。

タッチのタイミングは同時。
歓声が響いても、杏捺の指はまだ動いていた。

息を切らす夏也と遙が画面に映り、ハッとして指を離す。
顔を上げると、尚と一瞬だけ目が合った。

「ふたり同着だったよ」

尚が伝えると、夏也は悔しそうに声を零した。
それでもすぐに遙へ手を差し出し、リレーへの参加を求める。

おずおずと差し伸ばされた遙の手を、夏也は強引に取った。

「でも次は俺が勝つ」

勝気な笑みを浮かべる夏也に、杏捺は思わず口角を上げた。

撮った写真を、いつもの癖で一枚ずつ丁寧に見返す。
タッチは確かに同時だった。
水しぶきの軌跡やフォームの角度を追いながら、画面を進めていく。

一枚の写真に目を奪われ、手が止まる。
そこに映っていたのは、夏也の表情が、ふっと色気を帯びた瞬間だった。

「……う、わぁ……」

思わず声が漏れ、顔が熱くなる。
圧倒されて、濡れたプールサイドに座り込んでしまった。

「杏捺? どしたの」

声をかけられて、慌ててカメラを抱えるように隠した。
こんなの、誰にも見せられない。

「もしかして、スゴい瞬間でも撮れた?」
「スゴいというか、なんというか……」
「杏捺のことだから、部長の写真でしょ」

先輩が、からかうような笑みを浮かべて覗き込んでくる。
その軽さが、余計に胸に刺さった。

「ちょっと、ストップ。杏捺、昔1回フラれてるんだから」

茶化し半分、心配半分の声が飛ぶ。
それを聞きながらも、友達が大丈夫かと覗き込む。
杏捺は曖昧に笑いながら、カメラの電源を切った。

また、この話で誤魔化してしまった。
本当のことを言えない自分が、わずかに引っかかる。

「でも部長って、杏捺のこと絶対気に入ってるよね」
「そうそう。信頼感あるというか……」

杏捺の肩が、びくっと揺れる。
こういう空気になるのが困るから、ずっと言わずにいたのに。
言葉にされると、逃げ場がなくなってしまう。

「今なら脈アリなんじゃない?」
「もう、先輩……からかわないでください……」

胸の奥が少しだけ痛んで、カメラを抱えたまま視線を落とす。

「気にしちゃダメだよ、杏捺」
「うん。大丈夫」

むしろ気にしているのは、嘘をついていること。

夏也に迷惑をかけたくないと思って隠してきた。
冷やかされるのが怖いのも本当だった。
水泳に集中してほしいのも、嘘じゃない。

でも、そのどれもが、自分の弱さに触れている気がした。
自分なんかが隣にいることを知られたくない。

それでも、この気持ちだけは止められなかった。

「……何度フラれたとしても、好きだから」

小さく溢れた声は、誰に届くでもなく、ただそこに落ちた。
自分自身に言い聞かせるみたいな、嘘のような本音。

この関係がいつまで続くのか、わからない。
気まぐれで終わってしまうのかもしれない。
それでも、今こうして胸にある気持ちだけは、確かだと感じられた。