静かな香り
あっちを向いたままの扇風機の風が、誰もいない空間を通り抜けていく。
窓の外では、グラウンドで野球をしているらしく、遠いざわめきがかすかに混じる。
それでも、この部室だけは、練習の余熱が抜けたようだった。
郁弥が更衣室で着替えを終えて部室に入ったとき、そこには杏捺しかいなかった。
帰る前にここへ寄ることはあまりない。
ただ今日は、尚に記録だけ書いていくようにと言われていたのを思い出したのだ。
机の隅で、部活用のタオルを一枚ずつ丁寧に畳んでいる。
その動きは柔らかく、ほとんど音を立てない。
郁弥には、その静けさが妙に居心地が悪かった。
誰が居ても気まずいのは変わらないが、それでもある程度騒がしければまだ良かった。
沈黙が重く、空気が薄い気がして、息苦しい。
自分の呼吸の音さえ、やけに大きく聞こえた。
記録を書き込むために机へ向かうと、横を通り抜けた気配に気づいた杏捺が顔を上げた。
「あ、郁弥。今日のターン、すごく綺麗だったね」
明るすぎない、いつものまっすぐな声だった。
その声が落ちると、空気がほんの少しだけ揺れる。
郁弥は短く息を吸って、返事はしなかった。
頭を小さく下げて鞄を置く動作だけで、応えたことにした。
杏捺もそれ以上は何も言わず、再びタオルに手を戻す。
タオルの端を揃える指先が、優しく布を撫でていく。
特に何かを考えているわけではなかったが、誰かと居るという事実が、薄く意識の端に引っかかっていた。
郁弥は、気にしないようにと棚から自分の記録ファイルを取り出した。
机にファイルをひろげて、今日の記録を書き込む。
ペン先が紙を擦る音が、扇風機の風に混じって響いた。
書き終えたファイルを棚へ片付けると、肩からふっと力が抜ける。
差し込んだ光に目が眩んで、自然と視線が窓の方へ向いた。
夕陽が傾き始め、光が室内を染めている。
白とも橙ともつかない、曖昧な色。
それをぼんやりと眺めていると、不意に杏捺が息を呑むのが分かった。
瞳を揺らしながら、机に落ちた光の境界線を指でなぞっていた。
風景の一部みたいに見えていた杏捺の存在が、急に輪郭を持つ。
杏捺が荷物を引き寄せる拍子に、小さなボトルがバランスを崩した。
床に落ちて、ゴロゴロと音を立てながら、郁弥の足元近くまで転がってくる。
短く声を上げた杏捺が慌てて椅子を引いて、床を擦る低い音がした。
歩み寄ってくる気配を横目に、郁弥は転がってきた制汗剤を拾い上げた。
「ごめん、ありがとう」
近くで、柔らかい声がした。
けれど、その言葉は耳に入らなかった。
拾い上げた制汗剤から薄い香りが鼻先をかすめ、郁弥は確信する。
これだ。
夏也が帰宅したとき、時々、ふわりと感じることがあった。
いつもの洗剤でも、外の匂いでもない。
爽やかで、少し甘くて、どこか柔らかい。
理由もわからないまま、気になっていたもの。
それが、今、手の中にある。
近寄ってきた杏捺のスカーフが揺れ、布が空気を切る。
その動きに合わせて、手の中の制汗剤と同じ香りが微かにした。
頭の中で、それが静かに繋がった。
「……杏捺先輩って、兄貴と付き合ってる?」
言葉が、思ったよりはっきりと口から出た。
自分でも驚くほど、迷いのない声だった。
差し出した杏捺の手が、途中で止まる。
彼女はゆっくりと顔を上げた。
「えっ」
みるみる頬に赤みが差していく。
その反応を見た瞬間、郁弥は、やっぱり、と思った。
同時に、なぜか苛立ちが胸に広がった。
制汗剤を、半ば押し付けるように杏捺に渡す。
視線は合わせなかった。
「その匂い、兄貴からしてた。先輩のですよね」
言葉は短く途切れたが、十分だった。
ときどき夏也が、自分の知らない匂いにまみれて帰ってくる。
その違和感を、以前から郁弥は感じていた。
兄の生活のどこかに、知らない何かが混じっているような感覚。
今、目の前にいる杏捺が、その要因だ。
ただそれだけが、頭の中で繰り返される。
郁弥は、それ以上うまく言葉を続けられなかった。
杏捺が何も言わないので、郁弥はやっと彼女を見た。
口をわずかに開けたまま、固まっている。
嫌な顔をされると思っていた。なのに、そんなものは1ミリも感じられない。
まるで感情が一瞬で収縮したみたいに、目が見開かれていた。
驚きと、羞恥と、ほんの少しの焦りが、瞳の奥で混ざり合っている。
しばらくして、郁弥は視線を外した。
舌打ちにも似た息を軽く吐き、体の向きをわずかに変える。
小さな仕草が、杏捺の固まった思考を少しだけ動かした。
杏捺は、喉の奥がひゅっと縮むのを感じた。
何かを言おうとして、言葉が形にならない。
自分の知らないところで、郁弥に嫌な思いをさせていたのかもしれない。
そんな考えが、ゆっくりと現実味を帯びてくる。
匂いで、こんなにも簡単にわかってしまうものだったのか。
恥ずかしさと、秘密が守れていなかったことへの動揺が重なる。
「……ごめん」
声は、小さくて、掠れていた。
郁弥の耳には届いているはずなのに、遠くで誰かが話しているように感じた。
胸の内側で、何かがちりちりと焼けていく。
悲しいのか、悔しいのか、腹が立つのか。
どの名前の感情にも当てはまらない。
「……別に」
吐き出すように呟いて、眉間に皺が寄る。
その声は、怒りというより、どこにも置き場のない感情が滲んだものだった。
杏捺は名前を呼ぼうとして、喉が狭くなったまま声にならなかった。
触れようとしたわけでもないのに、手が上がる。
どうすればいいかも分からず、ただ動きが途切れた。
郁弥は空気に耐えられなくなって顔を背けた。
バッグを掴み、ほとんど逃げるように部室を出る。
扉が閉まる音が、静まり返った部室に強く響く。
どうして出て行ったのか、郁弥は自分でもよく分からなかった。
それでも、あの場所に留まることができなかった。
ひとりでいるときよりもずっと苦しくて、言葉より先に身体が動いた。
夏也は、最近よく笑う。
杏捺の前でも、笑顔でいるのを見た。
というより、部活をしているときの夏也は、楽しそうだった。
家では、あんな顔しないのに。
そう思うと、置いていかれたような感覚が込み上げてくる。
部室に残された杏捺は、扉の閉まる音を聞いて、ようやく息を吐いた。
急激に張り詰めた気持ちが、少しだけ緩む。
制汗剤を握る手が汗ばんで、そのアンバランスさにも笑えなかった。
規則的な扇風機の風の音だけが、部室に残っていた。
郁弥の声は、怒っている、と言うにはあまりにも虚ろで、痛々しい響きだった。
杏捺は唇を噛む。
恥ずかしさと、どうしていいか分からない不安が胸に重なった。
視線を落とすと、足元にタオルが一枚、床に落ちていた。