One-Sided

校舎の出口。
灰色の空から降る雨は、容赦なくアスファルトを濡らしていた。
湿った空気に、どこか懐かしい雨の匂いが混じっている。
杏捺が傘を差しながら、帰ろうとしたそのときだった。

視界の端で、影がチラついて、ハッと顔を上げる。
杏捺がその人を見間違えるはずなかった。
いつもより暗いのに、そこだけはハッキリとしている。
夏也が空を見上げながら立ち尽くしていた。
その姿が、雨の中で少しだけ浮いて見えた。

「夏也先輩……」
「お、杏捺。いいところに」

そう言って、軽く笑いながら近づいてくる。
イタズラっぽいその顔は、どうしても逆らえそうになかった。

「途中まで入れてくれないか?」
「い、いいですけど……」

ウワサになるんじゃ……と言いかけて、飲み込んだ。
そんな杏捺の心配と期待を他所に、夏也は構わず傘の中に入ってきた。

「尚を捕まえようと思って待ってたんだけど、アイツ今日委員会で遅くてさ……」

顔が近い。傘の中で夏也の声が反響する。
杏捺は自分の体温がどんどん上がっていくのがわかった。

「タイミングよく杏捺が来てくれて、助かったよ」

その言葉に、杏捺の胸がじんわりと熱くなる。
自分が夏也を助けられる存在になれたことが、嬉しくて、くすぐったい。
けれど、どう返せばいいのかわからなくて、ただ黙ってうつむいた。

「ん?」

夏也が、杏捺の様子に気づいたように声を上げる。

「あ、えっと……」

杏捺は慌てて顔を上げるが、うまく言葉が出てこない。
不自然に目を泳がせる杏捺
傘を持つ手が震えていて、どこかぎこちない。
夏也の頭が傘の骨組みに触れて、あぁ、と察したように夏也は傘を握る。

「持つよ」

杏捺は思わず傘を手放して、小さく声を漏らした。
歩き出す夏也に合わせて、自然と彼の隣に並ぶ。
雨の音より、自分の心臓が、世界でいちばんうるさかった。

ふと、夏也が傘の端を持ち直した。
肘が杏捺に少しだけ触れた。

「……悪ぃ、ぶつかった」
「い……いえ、大丈夫です!」

声が少し大きくなってしまった。
夏也が驚いたようにこちらを見て、すぐに笑った。

「離れんなよ、濡れるぞ?」

小さく返事をして、夏也に近づく。
肩が触れそうな距離。いや、触れている。
彼の体温が、雨の冷たさを忘れさせる。

杏捺も、だいぶ部活に慣れてきたんじゃないか?」
「そう……ですかね……?」

うまく返せない。
いつもならもっと話せるのに、今日は言葉が喉の奥で絡まってしまう。

二人は並んで歩き出す。
雨音が、二人の間を埋めるように響いていた。

夏也は、何気ない話を続けていた。
部活のこと、今日の授業のこと、顧問の先生のちょっとした失敗談。
彼の横顔は、雨に濡れた空気の中で、どこか柔らかく見えた。
杏捺は笑って相槌を打ちながら、必死に心を落ち着けようとしていた。

それでも、水溜まりを飛び越えたり、車の水はねを避けたり。
ちょっとしたことでどんどん心音は大きくなっていく。

「……なんか今日おとなしいな。雨、嫌いなのか?」
「えっ、えーと……」

言葉を探す。
雨はいつも憂鬱で、傘を差すのも億劫で、濡れた靴が嫌いだった。
でも、今日は違う。
夏也の声が傘の中で響いて、雨音と混ざって、心地よかった。
彼と並んで歩いているだけで、雨が少しだけ好きになれる気がした。
雨のおかげでこんなに近くにいられるなんて。
期待していなかった出来事に、頬が緩む。

「今日の雨は、嫌いじゃないです」

純粋な気持ちだった。
でも、隠している思いもある。
まさか、相合傘で意識してるなんて、言えるわけなくて。

「……今日だけ?」
「はい。夏也先輩の話、楽しいから……」

杏捺は言葉のあとに続く気持ちを、喉の奥でそっと押しとどめた。
本当は、夏也先輩と一緒だから、と続けたかった。
でも、それを言ってしまえば、何かが変わってしまいそうで怖かった。

「そう言ってくれる後輩がいて、助かるよ」

その言葉に、杏捺の胸がひやりと冷えた。
嬉しい。でも、つらい。
彼にとって自分は、同じ部活の、ただの後輩。
それ以上でも、それ以下でもない。
こんなに近くにいるのに、この想いは届かない。

「1年はみんな真面目だし、良いヤツばっかだよな」

その笑顔が、杏捺の胸をまた締めつける。
好きだ。どうしようもなく、好きだ。
けれど、言えない。
視線を上げれば、彼の横顔がすぐそこにある。
言ってしまったら、きっとこの距離は、壊れてしまう。

「……あ」

とうとう家の前まで来てしまった。
杏捺は、傘の端からこぼれる雨粒を見つめた。
こんなふうに並んで歩ける時間が、ずっと続けばいいのに。
そんな願いが、胸の奥で静かに膨らんでいく。

突然立ち止まった杏捺に合わせて、夏也も足を止める。
彼女が濡れてしまわないように、慌てて傘を寄せた。

「私の家、ここで……」

寂しい気持ちが声に乗ってしまう。
もっと一緒に居たいと、伝わってしまいそうだった。

「なんだ、わりと近かったんだな」
「そうなんですか?」

夏也が先の道を指さして、杏捺は無意識に先の道を見る。
さっきよりも強くなった雨で、景色がじわりと曇っていた。

「俺はもう少し先行ったところだから、ちょうど帰り道だな」

良かった、と杏捺は安心する。
夏也がなにも言わないまま歩き続けるもんだから、遠回りさせてるかと心配だったのだ。
杏捺は夏也に傘を持たせたまま、自宅の屋根の下へ移る。

「あ、おい、杏捺?」
「……それ、使ってください」

杏捺が傘の外に出たのを見て、夏也が焦ったような声をかけた。
さっきまで、傘の中で反響していた声が、もう響かない。
それだけで、彼との距離が急に遠くなったような気がした。

「いいよ、ここからすぐだし」
「部活のときに返してくれたらいいので」

それは、今日の終わりを少しだけ先延ばしにするための手段だった。
傘を返してもらうという約束が、次にまた話せる理由になる。

「送ってくれたお礼、ってことにしておいてください」

その言葉は、ただの口実だった。
返してもらうまで、彼の中に少しでも自分が残っていてほしい。
そんな願いを、誰にも気づかれないように、そっと傘に託した。

「……じゃあ、借りてく。ありがとな」

そう言って傘を上げる夏也に、杏捺は会釈する。
夏也は傘を少し傾け、雨の中を歩き出した。
振り向かないその背中をしばらく見ていた杏捺
見送ることしかできない自分が、ひどく小さく思えた。
言えなかった言葉が胸の奥で静かに疼く。
傘の中に残った体温も、声も、もう彼には届かない。
それでも、今日は雨で良かったと、心から思えた。
雨が、彼と自分を繋いでくれた気がしたから。