届かない気持ち

水の音が、心地よく耳をくすぐる。
杏捺はプールサイドで膝をつき、カメラを構えていた。

今日はプールに入れない。それでも、何かしていないと落ち着かない。
率先して記録係をしていたが、それだけでは足りないような気がした。
昔から、風景や人の表情を切り取るのが好きだった。
何気ない瞬間を残すことで、なにかの役に立てるかもしれない。
杏捺は部長と相談して、写真撮影の許可をもらった。
もちろん部員全員の了承を得て。

自前の一眼レフを取り出し、脇を閉めて構える。
シャッター音が、水の音に紛れて小さく響いた。

飛び込みのタイミングのズレ、ゴールタッチの瞬間。
その一瞬一瞬を、カメラで捉える。

次々に泳ぎ始める部員を撮影していると、端に夏也が映り込む。
そのまま杏捺は目が離せなくなった。
ファインダー越しに彼を見つめるたび、息が詰まる。

やっぱり、好きだな。
気持ちが膨らんで、思うままにシャッターを切る。
それは、もう止まらなかった。

シャッター音が、心臓の鼓動と重なるように耳に残る。

夏也の泳ぎは、部内でも評判だった。
そのフォームは力強く、整っていて。
でも、どこか孤独な背中だな、と杏捺は思った。

ハッとしてカメラから顔を離すと、ちょうど夏也がプールから上がってくるところだった。
キャップとゴーグルを無造作に外す姿に見惚れて、手元が滑る。
レンズが引っ込むように動いて、慌てて視線を落とす。
うっかりカメラの電源を切ってしまったようだ。
写真を確認していると、水滴を落としながら裸足が視界の端に入ってきた。
それが誰なのか気づいた瞬間、思わず息を止めて見上げる。
さっきまで見惚れていた張本人が杏捺を覗き込んでいた。

「順調か?」
「あ、えと……今はフォームの確認を……水しぶきの上がり方が、全然違って。これとか、先輩は、すごく綺麗で……」

言葉がうまく出てこない。
それでも話を続けていたい。
なのに、口から出るのは当たり前のことばかりだった。

杏捺はカメラのモニターに先ほど撮った写真を順番に映していく。
もちろん、フォームの写真は言い訳にすぎない。
緊張で言葉が浮かばなかったのと、何か触っていないと落ち着かなかったからだ。

夏也はほんの少しだけ眉を上げて、それから杏捺の手元に視線を落とす。
モニターに映る自分の姿を見て、少し照れくさそうに頭をかいた。

「相変わらず勉強熱心だな。大事なカメラ、濡れないようにしろよ」

それだけ言うと夏也はプールサイドに足跡を残しながら離れていった。
杏捺はその背中を見つめて、安堵にも似たため息をついた。
けれど、心にぽっかりと穴が空いたような感覚を残していた。

やっぱり、私なんて眼中にない。
そんな思いが胸に染みついていくのに、目が離せなかった。
濡れた髪をかきあげる夏也の背中を、ただレンズ越しに追い続けるだけ。
その距離さえ、愛おしく感じてしまうほどだった。

プールサイドの隅で、撮った写真を見ながらバインダーの紙に書き込む。
書き終えてペンを止めたところで、後ろから声をかけられた。

「好きなんでしょ、夏也のこと」

尚だった。
その声は、風の音に紛れるように静かだった。
杏捺はバインダーを閉じかけた手を止めて、振り返る。

「……な、尚先輩?」
「夏也が好きなんでしょ?」

尚は更に目を細めて、首を傾げる。
探るように、催促するように、もう一度訊いた。

「え、と……」
「見てればわかるよ」

エッ、と変な声が漏れて、杏捺は固まった。
誰もそんなことを口にしていないし、思ってもいないはず。
でも、目の前の尚は気づいている。
もしかしたら、他にも気づいている人がいるのかもしれない。
わかるわけもないのに周りのみんなを見回した。
動揺する杏捺を見て、尚は小さく笑った。

「大丈夫だよ。もちろん本人は気づいてないし、勝手に話したりしないよ」

尚は肩の力を抜いたように表情を和らげ、バインダーに視線を落とす。
練習メニューのチェックとフォームの確認。
今日やる予定のものとまだ未確認のものまで細かく書かれていた。

杏捺は、真面目で頑張り屋さんだね」
「あ、いえ……私なんて……」

その言葉が思いがけず心に響いて、鼓動が少しだけ早くなる。
謙遜するように顔の前で両手を振る。

「夏也に気持ちを伝えようとは思わないの?」
「そっ……それは、まだいいんですっ」

杏捺は思わず声を張ってしまった。
こんな大きな声で言うつもりはなかったのに、つい出てしまった。
焦りと恥ずかしさが重なって、顔が熱くなる。

「まだ、ってことは……伝えるつもりはあるんだ?」

杏捺はハッと目を見開いて、口元を押さえた。
何もかも見透かされているようで、思わず視線を逸らす。
尚は風の音に紛れるように、静かに言った。
杏捺の気持ちを否定せず、そっと包み込むようだった。
長い前髪が、風に吹かれてサラサラと揺れている。

杏捺はわかりやすいね」
「……ごめんなさい」
「謝らなくていいのに」

少し間があってから、尚は夏也の方を見た。
力強く泳ぐ姿に、何かを思い出すように視線を落とす。
そして、ため息交じりで呟いた。

「そういうとこ鈍いから、アイツ。気づかないまま、傷つけるようなこともあるよ」
「そうですね……」

杏捺の口から自然に出た肯定の言葉に、尚は驚いて彼女を見た。
遠くを眺めているようで、その視線は夏也に向けられていた。

「尚先輩は、そういうの、たくさん見たんですか?」

問いかけに、尚は口元だけで笑った。
優しくて、綺麗で、どこか儚い笑顔だった。
その笑みに、杏捺の胸がどうしようもなく締めつけられる。

「なんかわかります。夏也先輩、素敵な人だから」

杏捺は声の調子を少しだけ柔らかくしながら言った。
けれど、その顔には、ほんの少しだけ悲しさが滲んでいる。

「私も……もう、何度か傷つきました」

それでも、傷つくことよりも、好きな気持ちの方が大きくて。
何かを押し殺すように唇を結んで、杏捺は静かに続けた。

「わかってましたけど、私はただの後輩なんだなあって」

寂しそうな表情を浮かべる杏捺
2人の間にしばらく沈黙が訪れる。
けれど、それは嫌なものではなかった。
ただそこにいるだけで、安心感があるような空気が流れている。

「俺は何にもできないけど、傷ついたら話してくれていいからね」

尚は杏捺を見て、ほんの一瞬だけ複雑そうな表情を浮かべる。
けれどすぐに、どこか安心させるような表情に戻った。

「いつかは、言うんでしょ?」
「そ、そのうち……頑張ります……」

その言葉は、まるで自分自身に言い聞かせるようだった。
けれど、確かにそこにある本心だった。

水の音と、歓声が聞こえて、杏捺はプールの方を見た。
ちょうど夏也が50メートルを泳ぎ切り水面から顔を出したところだった。
その姿は、やっぱり眩しくて、少しだけ遠かった。

「……おーい、尚!」
「悪い、いま行く」

そう言うと尚は杏捺の方に向き直った。
いつもの穏やかな笑顔で一言。

「じゃあ、行くね」
「はい、ありがとうございます!」

背中を向けた尚を見送った後も、杏捺はずっと夏也を見ていた。
尚との会話を思い返しては胸の中が温かくなるような、それでいて少し切なくなるような不思議な感覚に包まれていた。