「テストも終わったし、日曜遊びに行こうよ」
水泳部の女子が声を上げると、数人が盛り上がる。
杏捺は、備品を片付けながらその会話を耳にしていた。
「杏捺は?」
「えっと、日曜は山に登る予定で……」
「登山ってこと!? なんで!?」
杏捺がそう言った瞬間、部員たちが驚いたように反応する。
声の大きな女子が訊いて、杏捺は苦笑いしながら返す。
「……写真を撮りに行きたいんだよね」
カメラの話になると声のトーンが明るく変わる。
好きなことを話すときの、無意識の熱量。
隣でドリンクを飲んでいた女子部員が、意外そうな顔をして声を弾ませた。
「へえ、近いの?」
「うん。一駅先のとこ。木陰が気持ちよくて、小さいころよく連れてってもらってたの」
杏捺は思い出すように、遠くを見て言う。
記憶の中の風景が、ふと目の前に浮かんだようだった。
「じゃあ別の日でもいいじゃん?」
誰かがそう言って、欠伸をする。
練習後の空気は、ゆるい疲労感に包まれていて、会話もどこかのんびりしていた。
「週末ずっと雨だったから、晴れてる時に行きたくて」
「これからもっと暑くなるもんね」
「そうなの。あの辺り、いい感じに光が入って、コントラストが……」
無意識に気持ちが前に出て、言葉が止まらなくなる。
木漏れ日、葉の陰影、風の揺らぎ。
杏捺の頭の中に、撮りたい構図が次々に浮かんでいた。
「始まったよ、杏捺のカメラトーク」
誰かが茶化すように言って、笑いが広がる。
杏捺も照れたように頬を赤らめながら笑った。
そのとき、背後から声がする。
「へえ、楽しそうだな」
振り返ると、夏也が立っていた。
少しだけ興味を帯びた表情で、その視線は自分に向いている。
たったそれだけで、杏捺は胸がふっと熱くなるのを感じた。
「山登るって、それだけで運動になるし」
「夏也、なんでもすぐスポ根換算するよな」
近くにいた部員が、楽しそうに夏也をからかう。
会話に先輩や部長も加わって、自然と人が集まっていく。
冗談半分の会話に、ふと肩の力が抜けていくのを杏捺も感じていた。
「部活フィルターというか……」
「ちょっと脳筋だよな」
「おい、褒めてないな?」
そんなやり取りに、杏捺も口元がほころんだ。
夏也の言葉で、場の空気は一段と明るくなった気がした。
あっという間に輪の中心になる姿を見て、杏捺は目を細める。
彼を好きな気持ちは増していくばかりだった。
◇
日曜。予報通りに晴れ、気温が徐々に上がっていく昼前。
杏捺は汗をタオルでぬぐいながら、ゆるやかな坂道を登っていた。
登山道の入り口から、かなりの距離を歩いたように思う。
首から下げたカメラのレンズカバーを外して電源を入れた。
ファインダー越しに見る世界は、いつもより綺麗に見える気がした。
「この色、好きだな……」
小さくつぶやいて、シャッターを切った。
カメラの中に、夏の一瞬が閉じ込められて、杏捺は満足そうに息を吐く。
ふと蝉の声に混じって、土を踏む足音が聞こえた。
誰かがこちらに向かって歩いてくるのに気づいて、何気なく振り向く。
「……夏也先輩!?」
木々の間から差し込む光が、彼にまだら模様を描いていた。
少し乱れた髪。額には汗が光っている。
「よ、杏捺!マジで来てたんだな」
「えっと……かなりびっくりしてるんですけど」
言葉がうまく出てこない。
心臓の音が、蝉の声に負けないくらい大きく響いていた。
夏也はいつもより柔らかく笑って、近づいてくる。
「まぁちょっとした息抜きだ。トレーニングにもなるしな」
部活の延長みたいな口ぶり。
でも、どこか照れくさそうに頭をかいていた。
「てか、杏捺の話聞いてたら、登ってみたくなった」
「登って、って……頂上までですか?」
「せっかくだからな」
杏捺は坂の先を見上げる。
この先は道がきつくなっていて、木々が深い。
「杏捺も行くか?」
「もちろんです」
ゆるやかな登り坂から、少しずつ勾配がきつくなっていく。
汗が額から首筋に流れ落ちていくのを感じながら、杏捺はふと前を見た。
先を進む夏也の背中。
その動きは軽快で、まるで坂道なんて存在していないかのように進んでいく。
杏捺はその後ろ姿に見惚れていた。
自分が追いかけるべき人。そんな風に思ってしまう。
「夏也先輩、体力すごいですね……」
「ずっと鍛えてるからな」
「私、中学生になったのに体力落ちてるかも」
杏捺は息を切らしながらも、足を進める。
二人の歩幅は違うはずなのに、自然と同じペースで進んでいった。
時折足元の石を避けたり、樹の幹に手を添えてバランスを取ったり。
どちらも無理に話すわけじゃないけれど、沈黙は気まずくない。
むしろ、静けさの中で互いの存在が伝わってくるような時間だった。
「もう少しだ。ほら、あそこ」
夏也が指差した方を見ると、確かに道の奥に開けた空間が見えた。
木々が途切れ、太陽の光が直に降り注いでいるのが分かる。
軽く笑い、足を早める夏也。
杏捺もそれに続いて、最後のひと踏ん張りで傾斜を上がっていく。
そして、視界が急に広がった。
「わぁ……!」
木々を抜けた瞬間、目の前に夏空が広がった。
遮るもののない青さに、一気に体が解放されたような感覚になる。
山頂といっても標高は低いが、それでも海まで一望できる。
杏捺はその場に立ち尽くして、しばらく景色を見つめていた。
風がふわりと頬を撫でて、夏の香りがする。
心地よい爽快感が体を満たしていく。
杏捺はカメラを構えてシャッターボタンを押した。
「すげえいい眺めだな」
そう言われて、ファインダーを覗いたまま声の方を向いた。
景色を眺める夏也の横顔に目を奪われて、思わず指が動く。
シャッターの音に気づいて、夏也が不思議そうに杏捺を見る。
カメラ越しに目が合ってから、杏捺はハッと顔を上げた。
「あ!ごめんなさい……つい」
「部活のクセで、ってか? 気にしてねぇよ」
顔を赤くする杏捺に、夏也は笑いながら応える。
その声は穏やかで、いつもの部活での明るさとはまた違っていた。
カメラのモニターに、撮影した夏也の横顔が映し出される。
杏捺はこっそり画面の中の彼を指で撫でた。
「いいな、こういうの。写真撮りに行きたくなる気持ち、なんかわかったかも」
「そうでしょう?」
杏捺はちょっと大袈裟に笑ってみせた。
自分の好きなものが、夏也に伝わった気がして嬉しかった。
「写真撮るって、なんかジッとしてるんだと思ってたけど、そんなことないんだな」
夏也が景色を眺めながら呟いた。
写真を撮っていた杏捺が、カメラを下ろして夏也を見つめた。
視線に気づいた夏也が、口角を上げて杏捺を見る。
「杏捺のイメージも、なんか……変わったかも」
「えっ、どう変わったんですか?」
杏捺は緊張で声が震えた。
夏也が口元をわずかに上げ、いたずらっぽく笑った。
「何事も控えめかと思ってたけど……好きなことには真っ直ぐ、って感じ」
その言葉が胸に落ちて、杏捺はしばらく呼吸を忘れた。
好きな人からそう言われたら、嬉しい以外の感情なんてなかった。
夏空の下、風が頬を撫でる。蝉の声も遠くに溶けていく。
ファインダー越しに見た横顔よりも、目の前の夏也の存在が鮮やかに焼きついていた。